830年前の 源平・水島合戦のこと 日食だったって、本当???? |
車で走っている時のことでした。「あれ、あれ、あそこが水島合戦だって聞いたことがあるわよ。」お隣の方がおっしゃるのです。えっ、『水島合戦』・・・。それって、源平合戦のこと?
えー、こんなところに・・・・。驚きでした。不明な私は「源平水島合戦」は「水島の途」と言いますから、水島灘、すなわち今の水島の沖あたりで行われたものと考えていたのです。もちろん根拠なく、ぼやーっとそう考えていたのです。
それによりますと、今から30年余り前の昭和58年(1983)11月に「源平水島合戦800年祭」が行われ、この公園ができたとありました。
図書館で調べてみますと、その800年祭の時に「源平水島合戦(同800年祭実行委員会編)」という小冊子が発行され、それに詳しく書かれているではありませんか。 時は寿永2年(1183)閏(うるう)10月1日。 西の柏島に平家が、また東の乙島に源氏(木曽義仲方)が陣を敷き、戦いの末に平家が勝って、「初めてのこの勝ち戦が平家を上洛の望みに誘い、その後の一の谷、屋島、壇之浦と一路平家滅亡への転記となったこの合戦であった」ともあり、当時の源平合戦のなかでのここ水島合戦の重要性が語られています。 私たちにおなじみの源平藤戸合戦は、寿永3年(1184)旧暦12月7日(新暦では翌1185年1月10日)といいますから、この水島合戦はそれより1年余りまえの出来事のようですね。その1年の間に源氏は義仲方と頼朝(義経)方の戦いがあり、平家は福原(神戸)あたりまで巻き返すが、一の谷の戦いに敗れて屋島を本拠に備前児島まで進出してきていたようです。源平合戦はこの藤戸合戦から一挙に元暦2年(1185)3月の壇之浦まで進むわけです。したがって、水島合戦は6年にわたる源平の争いの中期の山場だったようですね。
さて、私の頭の中には「源平水島合戦」といえば「途中で日食がおこり、知っていた平家は戦ったが、知らなかった源氏は、すわ天変地異とばかりに驚いて逃げ散った」ということが面白くて、あちこちでしゃべっていたものでした。 「源氏の追手の大将軍は宇野彌平四郎行廣(略)、五千余人の兵共百余艘の兵船、綱といて押し出し夜の曙に漕ぎよせて鬨(とき)の声を発す。平家待ち受けたることなれば声を合わせて戦う。両方の軍兵1万余人なれば鬨の声会場に響き渡って・・・・」 「天にわかに曇りて日の光も見えず、闇の世のごとくになりたれば、源氏の軍兵共日蝕とはしらず、いとど東西を失って船を退きて、どこともなく風に乗って逃れ行く。平氏の兵共は兼ねて知りたければ、なお鬨を造り重ねて攻め戦う」 「源氏の軍敗れにければ討ち残されたる者ども、はしぶねに乗り移りとびおりとびおり落ち行きける」 源氏方で「討たるるものは多く助かる者は少なし。或いは備前国へ落ちるもあり、あるいは都へ上るものもあり(略) 1200人が頚切りかけたり」
この小冊子ではさらにこの日食について、本田実さんも論文を寄せるなどして論考を重ねています。どうやら事実で、平氏は当時の天文学などに通じていてこれを知っていたうえでの戦いだったようです。 ここは「水島の歴史」ですが、今の玉島地域で行われた830年前の源平水島合戦、触れるに意義あることと思い、ここに載せました。(2016,9)
下記の地図、中央右の「玉島大橋」とあるところの左右の陸地、左(西)側に「森本」という地名があり、これが平家本陣と考えられ、右(東)側には同じく「城(じょう)」という地名があり、これが源氏本陣であったと考えられています。 |