古代水島の遺跡たち
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 古い水島地域は海だったのですが、意外にもその周辺には多くの古代遺跡が残されています。縄文時代から弥生時代、そして古墳時代。
周辺の連島、福田地域に残されて遺跡たちを調べてみましょう。

梅雲寺古墳のこと
 私が最初に出会ったのは、さきの「連島出身の力士たち」 の取材で出会った梅雲寺古墳でした。由緒ある禅宗のお寺さんのお隣に、あっ、というような見事な石室が露出していました。大きな石が使われています。高さは2mを超えるでしょうか。往時はどれほどの大きさの土盛りとなっていたのでしょう?連島という孤島にあったとは思えない大きな古墳ではないでしょうか?

 「側壁石積が露出して危険であったため、修理して現在は石室内を補強し密閉している」とあります。「6~7世紀のもの・・・(略)連島ではおそらく土器製塩に従事した・・・その一族が・・」とあります。

 近くの梅雲寺、かって源平水島合戦に敗れた木曽源氏の武将の妻が、亡き夫の菩提を弔うために、尼となってこのお寺にこもったと言われているそうです。

茂浦1号墳は保存されていました
 実はこのすぐ上のサニータウンが開発されたときにも9基の古墳が発見され、「茂浦古墳群」と名付けられています。で、行ってみました。団地の突き当たりに小さな山が残っていまして、そのすぐ横に「茂浦1号墳」が公園化されて残っていました。
 径8.4mほどの円墳だそうで、どうやら土盛りを復元してあるようです。右の写真はここからの景色です。
 今は団地内になった2号、3号墳は探しましたが「調査後破壊、消滅」となっていて、影も形もありませんでした。また4~9号墳は未調査のようです?。
 梅雲寺古墳からこの1号墳をはじめとした古墳群、どうやら連続性を感じさせますね。 ここ茂浦地区には代々古墳を作るような有力な一族がおそらく製塩を主体に栄えてきたのではないでしょうか。

 またその他にも福田地域に、古城池南古墳(古城池トンネルを西に水島方面に出た左手の山中)、金浜古墳(児島塩生の標高40mの尾根上)、湾戸古墳群(ライフパークの北西方向の標高40mの南向き斜面にある7号墳は特別養護老人ホーム建設に伴って発掘調査が行われた)などが知られているようです。

あの有名な『福田貝塚』が
 私はかって倉敷市羽島の「羽島貝塚」を調査しました(1999~2000年)。市内の縄文遺跡として貴重な遺跡です。そこで出た人骨は「東大博物館」にあり、対面?してしまいました。

 その時に市内での有名な貝塚として『福田貝塚』の名を今でも覚えています。羽島と同じようにそこで出土した土器が、日本の縄文年代を規定する「縄文標式土器」になっているというのです。「福田KⅡ式、福田KⅢ式」等といわれるのがそれです。
 日本で有名な縄文貝塚2つが倉敷市内のすぐ近くに2つもあるのです。

 で、この福田貝塚、すぐ近くの様でしたのでので、朝の散歩で寄ってみました。古城池トンネルをを西に水島方面に出て少し、古城池の下側の堤防のすぐ下だというのです。

 上右の写真のような石碑がありました。昭和25・26年(1950・51年)に発掘調査が行われた時の石碑でしょう。
 また下中央の写真のように畑の中に少しですがそれらしい貝殻が散らばっていました。今から4,000年ほど前の貝殻です。
 ふーん、縄文人たちは長いこと、ここですぐ下の海を見下ろしながら生活していたのでしょうね。しばらくたたずんでしまいました。

 そのほか、今の水島地域、水島灘を囲む山際には、百科事典にものる「西日本で最初に注目された旧石器時代遺跡『鷲羽山遺跡』」をはじめ、児島の西海岸、連島南岸、玉島地域の東岸などに多くの古代遺跡が散在しています。水島地域は「歴史がない」どころか、古代遺跡の宝庫ということができると思います。(2017,12)

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