福田地区最古の新田
小十郎新田のこと
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 朝の散歩をしていると、いろんなものに出会います。今日は福田町浦田地区の最北端?ピーポー(水島臨海鉄道)の浦田駅の東側、山際でのことです。浦田公園というのに行き当たりました。「五軒屋集会所」なんて建物も見えます。

福田町域最古の新田発見!!!

   奥に金毘羅灯籠や五角柱地神様などが見えましたので足を踏み入れました。近くまで行くと、『小十郎新田碑』という石碑が建っていました。初めて聞く名前です。小十郎新田??

 「大正15年十月 支族第五世 大塚精一 七十七齢記念建立」と読めます。裏に詳しい記述があるようなのですが、よくは読めません。う~~ん。

 小十郎新田?と思って、福田町史に当たってみました。すると、11ページの「福田町の開拓一覧」という表にそれはありました。『小十郎新田 寛永元年(一六二四) 開拓者 福田村 大塚小十郎 面積不詳』とあります。
 1624年といいますと、江戸時代初期、徳川将軍が秀忠から家光に変わった年です。まだ全国での新田開発が始まったばかり、連島の北側でも盛んに新田開発が行われていた頃です。また倉敷新田が開発されたころでもあります。その時に、もうここ児島の南側で新田開発が行われていたようなのです。

 まさに福田地区最古の新田発見ではありませんか?

我が家は庄屋家だったようなんですよ。

 そのまま少し歩き、県道の下、トンネルを抜けていきますと、目の前に表札が『大塚』という、いかにも旧家という雰囲気のお宅があるではありませんか。もしかしたら???とお訪ねしてみました。

 「こんにちは。郷土史を研究しているものですが、あの石碑を見て伺いました・・・」すると、優しそうな老婦人(大塚由子さん)が出てこられて「私はあまり詳しくは存じませが・・・」といいながらいろいろと聞かせてくださいました。

 「あの大塚精一というのは我が家の祖先です。新田開発をした小十郎という人の直系ではありませんが、かってはこの地で庄屋家などを務めたようです。私は主人と結婚して、ずっと東京にいて、教員などをして来ました。定年後にこちらへ帰ってきて、古い庄屋家の家を建て直して住んでいます。この屋敷も、前の道路で敷地の半分近くを取られてしまったようなんですよ。」

 玄関には、以前の庄屋家という古い屋敷の写真が飾られていました。土塀をめぐらしたすごい邸宅です。何本もの松の木が茂り、いかにも福田村の庄屋という構えです。

 「小十郎新田」とは、児島郡福田村の大塚家という庄屋家が、屋敷の前の海を、少しずつ干拓して田んぼにしていったものだったようです。

「ごさんべえ」さんのホームページとの再会でした

 「近くにはいろいろと歴史を研究されている方がおられまして、こんな資料もいただいたんですよ。」とその方は見せていただきました。

 見ると「児島郡浦田村 大塚家」と書いた家系図や写真です。おや、何だかみたような??

 そのはずでした。私が杉原家の諸々を調べまわっていた、およそ20年近く前、同じ家系を研究されている「ごさんべえ」さんとお知り合いになり、親しく情報交換をさせていただいた時代がありました。その「ごさんべえ」さんのホームページの該当部分のプリントアウトだったのです。そういえば「ごさんべえ」さんはこの近くにお住まいだったような・・・。

 その資料には「大塚家の先祖は八軒屋(倉敷市)から新田を開いて移住してきています。」とあります。

 近くの大塚家のお墓を見せていただきました。なるほど、この家の先祖という「大塚唯七」という名前などが見えます。それより私の興味を引いたのは大塚家の家紋でした。扇の地紙になんだか植物らしきものが書いてありますが、なんというんでしょうね?。
 後で調べてみました。「地紙に中陰蔦(じがみにちゅうかげつた)」というもののようです。


 福田地区の干拓は、江戸時代以来、この小十郎新田を皮切りに、その周辺の黒山江ノ口新田、そして元古新田、古新田、福田新田と営々と続けられ、最後に東高梁川廃川地が倉敷市水島〇〇町となって、今の広大な土地を生み出したのです。すごいですね。(2016,11)
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