戦国山城・黒山城探訪記
児島の西北端にあった山城です
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 「黒山城」は、遠い戦国時代、備中児島の西北端の黒山にあった山城です。今の地名では「倉敷市浦田」と「倉敷市福田町浦田」の境をなす「黒山」の山頂にあります。
 この「水島の歴史見て歩き」では、地域の多くがかって海だったことから、戦国山城は少なく、この黒山城と、連島の3~4基の小さな山城跡とが対象になるようです。
 で、今回は年末の一日を割いて、現地を探訪することにしました。はたして現地に行けるんでしょうか?前回に探求した時にはどうもお隣の小丘に登ってしまい、目的が果たせませんでした。こんどこそ・・・・という訳です。

あら、「城山子安大師」だとか?

 県道藤戸連島線の五軒屋交差点の少し北から山に取りつきました。「ここでいいのだろうか??」不安です。少し入ったところに民家と、何か神社かお寺のようなものが見えました。傍らに四国88カ所のものらしい石仏もあります。近寄ってのぞいてみますと、提灯が吊ってあり「城山子安大師」とあります。
 「あ、そうか、やはりここは城山なんだ。よかった。」と勇気を奮って前進します。  後で詳しい地図を見ますと、ここは『高野山大師教会』とありました。高野山真言宗布教の総本部の出先なのでしょうね。
 上には多くの墓地がならんでいます。さらに道は奥へ。そこには・・・・。

道なき道をかき分けて・・

 写真下左のような竹林に入っていく山道でした。何とか竹林を抜けたのですが、もう道かどうかわかりません。下は落ち葉でびっしり。「ま、上に行けばなんとかなるのかな?」とバサバサと落ち葉をかき分けながら上へ上へ。
 滑るのを警戒しながら上がる行く手に見えたのは。一つの高まりでした。(写真下右)
 「あ、あれかな?」気は急げど、足はゆっくりと踏みしめながら・・。急坂は年寄りにはきついです。

頂上は土塁で丸く囲まれていました

 どうも山城の土塁のようす。上がると、その向こうにまた高い土塁が。2段か3段か、曲輪曲輪を囲むように続いています。
 一番上には、少し低い窪地を囲むように、まーるく土塁が延びていました。「あ、ここに中心的な建物でもあったのだろうか?」そこにはいかにもここが中心。とでもいうように大きな石が残っていました。
 ここが『戦国山城黒山城』なのです。「つわものどものゆめのあと」に違いありませんね。
 おや、かたわらに「三角点」が。土塁の一番高い所が「黒山」の頂上になっているようです。

 ではここで、「連島町史」から「内田武太郎氏の先祖書」を引用します。(句読点、改行、送り仮名等杉原付加あり)


 先祖書
一、私先祖内田丑之助と申す者、代々御当国の国侍に而。児島郡黒山に新城を築き毛利家に属し在城仕り候処、宇喜多家と遺恨之事有の趣にて、三村家に属し、毛利の持ち城連島北面に城攻めの節、討ち死に仕り候。に付き黒山城も没落仕り、其の子三郎兵衛、同郡浦田に土着仕り候。

 なるほどなるほど・・。文脈からすれば「永禄(1558-1569)」の終わりごろから「天正(1573-1591)」の初期のことらしいですから、今から450年ほど前の事になりますね。まさに「つわものどものゆめのあと」です。
別の資料(インターネットの「ごさんべえのページ」)では、
 「伊豆三島出身で、塩津三河守が毛利氏に仕えて、浦田村に茶臼山城、黒山城を構えました。天正三年(1575)に、子の三河守義古が北向城で戦死、其の子牛之助が浦田村奥池に帰農して内田姓を名乗りました」
ともあります。

 また「福田町史」にはその後のことが書かれています。


 「内田丑之助が攻めた連島の北面城は毛利氏の持ち城であって、塩津石見守が城代として居ったようですが、黒山城の内田が討死したので、しぜん黒山城もこの北面城の城代であった塩津石見守の手に入ったものでしょう。児島郡誌にも黒山城塩津左衛門とあります(略)。また天正10年に大江に変があり(略)13年に黒山城主塩津石見守がこれをしずめたという伝説が連島に伝わっていることからも、黒山城主が石見守であったことは間違いないでしょう。」

四国88カ所石仏や観音石仏が

 ということで帰路に就いたのですが、山上の土塁や、帰路とおぼしき山道に石仏が点々と残っていました。どうやら四国88カ所石仏や観音石仏のようなのですが、古いもので良くは判りません。かってはここも石仏めぐりの順路になっていたのでしょうね?

 ま、帰りは途中で道が無くなって迷ったことを付記して、今回のレポートは終わりです。(2019,1)

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