戦国山城・黒山城探訪記 児島の西北端にあった山城です |
「黒山城」は、遠い戦国時代、備中児島の西北端の黒山にあった山城です。今の地名では「倉敷市浦田」と「倉敷市福田町浦田」の境をなす「黒山」の山頂にあります。
県道藤戸連島線の五軒屋交差点の少し北から山に取りつきました。「ここでいいのだろうか??」不安です。少し入ったところに民家と、何か神社かお寺のようなものが見えました。傍らに四国88カ所のものらしい石仏もあります。近寄ってのぞいてみますと、提灯が吊ってあり「城山子安大師」とあります。 |
写真下左のような竹林に入っていく山道でした。何とか竹林を抜けたのですが、もう道かどうかわかりません。下は落ち葉でびっしり。「ま、上に行けばなんとかなるのかな?」とバサバサと落ち葉をかき分けながら上へ上へ。 |
どうも山城の土塁のようす。上がると、その向こうにまた高い土塁が。2段か3段か、曲輪曲輪を囲むように続いています。 |
ではここで、「連島町史」から「内田武太郎氏の先祖書」を引用します。(句読点、改行、送り仮名等杉原付加あり) 先祖書 一、私先祖内田丑之助と申す者、代々御当国の国侍に而。児島郡黒山に新城を築き毛利家に属し在城仕り候処、宇喜多家と遺恨之事有の趣にて、三村家に属し、毛利の持ち城連島北面に城攻めの節、討ち死に仕り候。に付き黒山城も没落仕り、其の子三郎兵衛、同郡浦田に土着仕り候。 なるほどなるほど・・。文脈からすれば「永禄(1558-1569)」の終わりごろから「天正(1573-1591)」の初期のことらしいですから、今から450年ほど前の事になりますね。まさに「つわものどものゆめのあと」です。 別の資料(インターネットの「ごさんべえのページ」)では、 「伊豆三島出身で、塩津三河守が毛利氏に仕えて、浦田村に茶臼山城、黒山城を構えました。天正三年(1575)に、子の三河守義古が北向城で戦死、其の子牛之助が浦田村奥池に帰農して内田姓を名乗りました」 ともあります。 また「福田町史」にはその後のことが書かれています。 「内田丑之助が攻めた連島の北面城は毛利氏の持ち城であって、塩津石見守が城代として居ったようですが、黒山城の内田が討死したので、しぜん黒山城もこの北面城の城代であった塩津石見守の手に入ったものでしょう。児島郡誌にも黒山城塩津左衛門とあります(略)。また天正10年に大江に変があり(略)13年に黒山城主塩津石見守がこれをしずめたという伝説が連島に伝わっていることからも、黒山城主が石見守であったことは間違いないでしょう。」
ということで帰路に就いたのですが、山上の土塁や、帰路とおぼしき山道に石仏が点々と残っていました。どうやら四国88カ所石仏や観音石仏のようなのですが、古いもので良くは判りません。かってはここも石仏めぐりの順路になっていたのでしょうね? ま、帰りは途中で道が無くなって迷ったことを付記して、今回のレポートは終わりです。(2019,1) |