明治詩壇の巨匠
薄田泣菫は連島の人
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文化の島・連島が生んだ薄田泣菫

 連島と言えば、「薄田泣菫」を語らずにはおられません。私たちの子供の頃は、必ず教科書に載っていた人です。宝島寺の名僧寂厳から薄田泣菫へと連なる文化の系譜は「文化の島・連島」の系譜と言ってよいでしょう。

 平安時代、13院をはじめ数十の堂宇を誇ったという山岳仏教宝島寺。
 備中東部に北から新山(総社市)、福山、日間山からこの連島へと連なった大山岳仏教地帯の残照が、文化の島としての連島を残しているのです。

連島東部、大江にその生家がありました

 連島街道の東部、「大江」というバス停から北へ、前回訪ねた「大江前新田300年記念碑」のある公園のすぐお隣です。市の主管で修復保管されています。入口の説明版には『明治詩壇に大きな足跡を残した薄田泣菫の偉業を永遠に伝えるため、生家を修復し、建築当時の趣を今に再現した。』とあります。

 中にはいろんな展示がありますが、まず目を引いたのは泣菫本人の写真2葉でした。さすが当時の写真としては、軍人などと違い優しげですね・・・

島崎藤村後の第一人者として活躍

 続いて目についたのは『ああ大和にしあらましかば』という彼の代表作ともいえる詩でした。直筆も展示されています。
 う~ん、当時の文体ですし、私などには何がいいのかちょっと理解不能??ですね。いや、泣菫さん失礼しました。

 なお、この詩は連島の「厄神社」境内にある泣菫の詩碑にも載せられています。

 でもさすがに「巨匠」と言われ、島崎藤村後の第一人者として活躍したというだけに、友との交換書簡などの展示はさすがです。私が名前を知っている戦前の文化人のほとんどを網羅しているといってもいものでした。
 与謝野晶子、与謝野鉄幹、芥川龍之介、森鴎外といった私でもすぐに思い浮かぶ文人たちの写真や書簡の展示は圧巻でした。

 ここでは与謝野晶子の写真を紹介しておきましょう。

 薄田泣菫さん、この地に明治10年に生まれ、昭和20年に亡くなるまで、明治詩壇の巨匠として大活躍されたようです。その解説は詩の良さもわからぬ私などの解説よりも、生家の門前にある説明版を載せたほうがよいでしょうね・・・・。下記をごらんください。(2017,2)

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