連島出身の力士たち
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 ここに、「西浦学区コミュニティー協議会、水島を元気にする会」発行の『”連島の88ヶ寺”ひとめぐり』という緑色の地図があります。連島地域の四国88カ所霊場を一覧にした地図で、それぞれの霊場が赤字でナンバーが書かれて、とてもよくわかる地図なんです。
 で、でです。その右の部分に「力士の墓」と書かれているのですね。力士と言えば大相撲。国技とも一部で言われているものなのですけれども・・・。これは興味深いことではありませんか?

「岩戸藤」・明治のころの大阪相撲でした

 で、行ってみました。連島東小学校の横の、谷を挟んだ東側の墓地です。難波さんというお宅のお墓の中でした。
 ややっ、これは!!なんと亀の上に乗っているではありませんか。しかも六角形。どうやら備前の池田家や鳥取の池田家のお墓で有名な『亀趺(きふ)墓』ではありませんか。倉敷市中帯江の不洗観音寺郊外にある、帯江銅山功労者のお墓も亀趺墓でしたが、なんともすごいですね。

 「力 岩戸藤東七の墓」とあります。横には「難波仲助信孝次男行年三五歳」「明治一五年六月三十日」とも。また「朝日山門人」とも。朝日山部屋というのは、江戸時代以来の大阪相撲に起源を持つ伝統ある相撲部屋で、数々の流転ののち、現在では元関脇琴錦が朝日山を襲名しています。ここに所属していた「岩戸藤」という力士のお墓なのでしょうね。少し調べてみました。

関脇まで上り詰めて

 昭和52年に連島公民館の手で発行された「連島の話その2」に「連島の力士たち」とした特集記事がありました。連島の郷土史家として名高い安原秀魁さんの筆になるもののようです。その一人目として「岩戸藤東七」が取り上げられています。(なお、昭和41年発行の『高梁川』19号にもほぼ同じ文章が載っていました)
 20歳で大阪相撲の朝日山部屋へ入門した彼はめきめきと力をつけ、実家の屋号「岩戸」を使って「岩戸藤」と名乗って出世していきました。
 明治5年(1872)2月、彼の故郷の連島で2日間にわたって大相撲巡業が行われ、岩戸藤は後ろ盾となってくれている横綱陣幕(12代横綱・稀勢の里は72代)とともに挨拶をおこなったそうです。

 岩戸藤は明治10年ごろには小結、13年には関脇へと昇進、15年(1882)秋には陣幕の後継ぎとして大関が約束されていたそうですが、その6月ふとした風邪がもとで肺炎、帰らぬ人となってしまいます。

お万狐と勇駒

 当時の連島には、多くのお宮やお寺に相撲場があり、村の若者たちの唯一の娯楽、またスポーツとして相撲が盛んであったと言われます。相撲は当時の文化のいわば花形だったのです。この連島からは当時、多くの力士が出ています。

 現在目にできるのは他に、「勇駒」「岩戸藤勝太郎」という人のお墓です。勇駒の墓は西之浦の正福寺の門前にあります。
 この勇駒というのは相撲甚句の名手で、帰郷の折にはよく八丁土手を通りながら相撲甚句をうなっていたと言います。ところがこの時に決まって美女が現れ、彼の美声に聞きほれていたそうです。後になってそれは亀島山に住む「お万狐」だったということが分かったとか。美女狐に惚れられた力士、どんな美声だったのでしょうね?(2017,5)

PS:後世、連島の「ウェルサンピア倉敷」で育った世界的スケーター「高橋大輔」が現れるのも、こういった連島文化の伝統なのではないでしょうか?
PS2:おっと、広島カープのエース、野村祐輔投手も連島出身でしたよね。

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