水島の元はここでした・酒津
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 水島って、元は「東高梁川」の川底が街になったところ・・・。という話はよく聞いていたのですが?さて、その「東高梁川」って?
 ということで、今日はどうもその水島の元になったらしい?倉敷市酒津の水源池を訪ねました。

倉敷一の桜の名所が

 旧倉敷の西北の端、倉敷市と総社市の境にある「福山」山塊が西の高梁川に落ちる位置にあるのが「酒津」です。ここはいわば倉敷一の桜の名所で、古くから春には花見客で賑わったところです。私も子供のころから花見といえば酒津で、もう何回きたでしょうか?下の写真右は当時(昭和30年代初期)の写真です。
 また、中学校3年生の夏休み、ここの水源池で水泳教室が開かれ、自転車で通った記憶があります。当時はまだ「神伝流泳法」が盛んな頃で、横泳ぎなどを習いました。最後の卒業遊泳で、高梁川本流を泳いだのですが、私はまだ筋力が弱くひとりだけ流されて、危うくコーチに助けられて井堰にようやくひっぱりあげられたという記憶があります。ま、いろんな意味で私にとっても懐かしいところなのです。

 ところが明治のころまでは、高梁川はここから2つに分かれ、西高梁川と東高梁川があったというのです。古くから高梁川は暴れ川といわれ、毎年のように洪水を繰り返してきたとか。ために下流域の農民たちが苦労を重ねたということがあります。

 私事ですが、我が家も明治の大洪水のあとの疫病の流行で、一か月の間に私の祖父を除いて一家4人が全滅するという悲劇に襲われています。もうちょっとで私もこの世に生まれていなかったのかも知れませんね。

大正時代を通じた大工事の末に

 それが明治の終わりから大正年間を通じた、約14~5年間にわたる大工事の末に、ここ酒津で東高梁川を締め切ってしまい、西高梁川を本流にしたことで、その後は洪水が起こらなくなったというのです。

 ここへ来てみますと、そのときの記念碑があり、詳しくその模様が記されています。今回は新しい解説板を文末に掲げておきましょう。

 おそらく現代でいうと瀬戸大橋と同じ規模の大工事が行われたのです。

下流域の用水はすべてここから配されています

 ところで、ここ酒津といいますと、水源池のイメージが強いです。その名のとおり、倉敷市内の用水はほとんどがここ、酒津水源池から配られているのです。大正の大工事の折高梁川に井堰(いせき)が設けられ、川水の水位を上げて、横の配水池に水を流し込んで、そこから何本もの用水を使って、網の目のように倉敷市内の田んぼなどに水を供給するシステムです。

 下は高梁川本流と工事当時の岡山県知事の名をとった「笠井堰」です。

 また、配水池から出る水門の写真と、解説図を下記に載せます。あ、この「南部用水」というのが福田用水として福田地域に来ているのですね。

 今日は、水島の歴史を始めるにあたって、その元となった「酒津」での90年余り前の大工事に思いをはせ、今の用水の模様を知る一日となりました。(2016,6)


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