千人塚のこと
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 こうして車で走っていますと水島地区というのは、道が広くて走りやすいなと感じます。比較的新しい地域で、都市計画が整っているんだなーと。
 実際は、以前に東高梁川が流れていた江長を起点に、道路が海に向かって南へ放射状に走っていて、碁盤の目のようにはなっていないのですが、それでもいったんわかると分かり易い地域です。
 中央部が水島、東の半分は福田、そして北の山際が連島と大きくは3地域に分かれているのです。そこで・・・・。
 とふと思いついたのが、かって広大な福田新田が台風による大洪水に襲われ、多くの人々が犠牲になったという話でした。そこでその犠牲者を祀る「千人塚」を訪ねて見ることにしました。

福田公園の南あたりに

 場所は地区東部の山にかかったところ。福田公園の南端のコンビニの横に、「千人塚みち400米」という標識がありました。どうやらここから入っていくようです。車で上がっていくと、なるほどすぐでした。小さな公園になっています。
 一段上に碑があります。そして詳しい由来が。


 「明治17年(1884)8月25日、岡山県南部を直撃した台風は、夜になって吹き返しの風となり、水島灘から打ち寄せる怒涛と高潮により福田新田の干拓堤防が各地で決壊しました。  ・・・当時の福田新田五か村(北畝・中畝・東塚・南畝・松江)の被害は、破壊流出した家屋742戸、荒廃した田畑705ha、犠牲者は536人にのぼりました。・・・・・・・」
 とあります。すぐ横には当時の地図もあり(ページ末参照)、新田一帯の様子や、海や川との間の堤防の切れた位置などが、書き込まれていました。何か所も決壊しています。文字通り新田が海と化したということでしょう。そして536人の死者を出すことになったのです。

 ここ「千人塚」には、1年後の明治18年にこの供養塚を築いた時の石碑もありました。「岡山県令」とありますから、当時の岡山県知事の追悼文です。一段下に読み下し文が掲示してありましたが、『嗚呼悲し 夫れ是れに埋葬せるは、暴風怒浪の為に・・・・』という名文です。福田新田という広大な地域が干拓されて約40年、おそらくその経営もようやく軌道に乗っていた時だけに、そのショックの大きさも推察できます。
 現在の福田地域の家並が続く様子からは想像だに出来ません。私もこの碑を前にしばらく立ち尽くすしかありませんでした。

 

 帯江の嘉永洪水とのこと

 「あー、すごい。帯江や早島などが襲われた嘉永の洪水と同じだ」思わず叫んでしまいました。

 それは嘉永3年(1850)東高梁川が氾濫し、今の倉敷の街から中庄、帯江、茶屋町、豊洲、早島、そして箕島地域にわたる広大な江戸初期の干拓地が、文字通り海と化した大災害でした。洪水の水深は2mに達して、20日以上水が引かなかったそうです。まさにこの福田新田のお隣の地域です。(この洪水の様子はここ、に)。
 その洪水の時には、東高梁川は江長のところで、上流からの土石流に埋まってしまっていました。
 そしてこの福田新田が生まれたのは「弘化2年(1845)」といいますから、嘉永の大洪水の時にはまだ福田新田干拓からわずか5年、地域整備の時代だったのでしょう。そしてその嘉永大洪水からわずか34年後、ここ福田新田も台風による大災害に見舞われたのです。

 えっ、明治17年????、なんだか個人的に記憶があるような・・・・。でもそれは違いました。明治27年の東高梁川の氾濫で、私の故郷帯江地域が被害を受けたとき、我が家は事後の疫病で、両親と3人兄弟のうちの2人が一か月のうちに死亡(今でいう「災害関連死」)しているのです。私の祖父(当時9歳)が一人助かったという悲劇でした。それよりわずか10年前のこの福田新田大洪水。とても身近に感じたのはもっとものことでしょう。

 このように高梁川は「忘れたころ」ではなく、まだ記憶が新しい頃にたびたびの洪水で、人々を苦しめてきたのです。その一つの象徴のようなここ千人塚のレポートから『水島の歴史探訪』を始めさせていただきました。(2016,4)

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