鶴新田のこと。
連島側の新田開発その3
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 「鶴新田」・・・水島地域の西に広がる広大な新田地帯です。西は高梁川、東は亀島新田、南は昭和の高度成長時代からのJFE(元川崎製鉄)に囲まれた一帯です。

 江戸時代後期にいくつかに分かれて開発され、明治時代からは大レンコン産地として有名になり、川崎製鉄誘致後は「鶴之浦団地」という巨大団地が出来てこれまた有名になった地域です。

亀島新田から140年ののちに

 この「鶴新田」、東の亀島新田が出来てから(1678)およそ140年も新田開発が止まり、ようやく1818年になって倉敷代官所の所管(幕府直轄工事ということ)で開発が始まったのでした。

 それからも、「米屋開き」「文化開き」「文政開き」「天保開き」「弘化開き」と名前がつけられたように、順番に開発が行われています。  それというのも、東側の連島東の浦(亀島新田等、東半分)の新田地帯は、何とか竜の口で東高梁川からの用水を確保できたのですが、西側は連島の西側からの用水の確保が困難だったこともあるようです。

 それでは、いくつかの特徴を拾ってみましょう。

用水路と排水路にわかれています

 これを聞いた時には私も思わず「えっ!!」と絶句してしまいました。岡山県南の新田地帯をいくつか知っている私には、初耳だったのです。「どうして?」と言ってもよくわかりません。とりあえず、現場を見てみることにしました。

 連島の西の端、連島町西之浦あたりを訪ねてみました。あれっ、そういえば高校の同級生が住んでいたんだっけ・・。そう、倉敷芸術科学大学への登り口のあたりです。

 「これは排水路」その同級生M君は語ります。「昔は汚かったんだけど、今はこんなにきれいになったんよ。」
 「あの国道の向こう側にあるのが用水路で、酒津の池から来ているんだよ。」

排水路(西之浦)用水路(西之浦)排水路(少し下流の嘉永橋あたり)
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鶴新田の水門は?

 この用水路は酒津配水池の「西部用水」から来ていて、鶴新田の各田んぼを潤し遊水池に流れ込みます。
 また排水路は西阿知と連島の間の江戸初期の新田地帯の余水を集めてきています。そして亀島新田との間の汐入川を通じて、遊水池から再び高梁川へと合流しています。
 それなら新田地帯に必須の「海との間の水門」があるはず・・・。と調べてみました。

 現在の鶴新田の特徴のもう一つは、南のJFE(元川崎製鉄)との間に、巨大な遊水池があることでした。そしてそこと海(高梁川本流)との間にこれまた巨大な水門が設置されていたのです。

遊水池新しい水門

 そして調べてみたら、ここより少し東に「昭和水門」や古水門があったのです。
この2つが、この南に臨海工業地帯が立地されるまで、鶴新田の用水管理の役を果たしていたようですね。

江戸期から明治大正までの水門昭和水門

鶴の浦団地は今?

 最後に、あの高度成長時代の水島を支えた「鶴の浦」という巨大団地はどうなっているのでしょう。
 現在は、「社宅」という役目は縮小され、独身寮の建物と、他は広大な空き地にこれまた巨大な「太陽光発電」設備が設置されていました。なんという変わりようなのでしょうか?
 水島のこの早い変化。私たちにはとてもついていけないですね・・・・。(2017,6)