や、や、、、やく、厄神社のこと
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連島の「厄神社」のこと

 連島に「厄神社(やくじんじゃ)」というのがあります。けっこう大きな神社で、ここの宮司さんは、どうやら連島一円のお宮さんの宮司を兼ねておられるようなんです。

 で、や、や、厄ってなんだ・・・・と考えてしまいました。だって、「厄神社」って、インターネットで検索してもあまり出てきません。「厄除け」で有名なお宮さんやお寺さんは結構あるようなんですけど、そのものずばりの「厄」を名前にした神社仏閣はあまりないようなんです。さては珍しいんかな???。
 「厄除け」では「日本三大厄神」というのがあるそうなんです。門戸厄神東光寺(兵庫県西宮市)、石清水八幡宮(京都府八幡市)、天野明神(和歌山県伊都郡かつらぎ町)がそうらしいです。いずれも厄神除けで有名なお宮やお寺さんだそうです。

や、や、、、やく、厄とは

 そもそも「厄」って??手元の「大辞林」では、「災難、わざわい。厄年」としかありません。いずれも、人の生活や一生でおこる災難、災厄のことで、それを避けるために昔の人々はいろんなお祈りをしたのでしょう。

 「厄年」ってあります。男は25,42,61歳、女は19,33,37歳(いずれも数え年)だそうですが、これらは三隣亡とか友引などと同じように、かっての陰陽道の考え方だそうです。えっ、じゃあ明治政府が陰陽道を禁止したとき、それを神道に取り込んだものですね。
 いずれにしても、ここ連島でも昔から厄払いが必要で、古くからこのお宮さんを祀ったようなのです。

流転のお宮「厄神社」

 境内の由緒書きを見ますと、このお宮さん、貞観9年8月(867 平安時代中期)鞆の浦(福山市)の祇園宮(現沼名前神社)から勧請され、連島の宮之浦で「薬神宮」として始まったとされています。
 その後永和3(1377)年、西之浦字小船に移り、「疫神宮」となった。
 また応永23(1416)年には西之浦字小川に、大永8(1528)年には西之浦字古宮(現西浦小学校東)へと遷宮を繰り返した。
 そして寛政5(1793 江戸時代後期)年、現在の西之浦字西山に移り「厄神宮」となった。西之浦の氏神、連島の総氏神として現在に至る。
 また、明治7(1874)年、明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)により、「厄神社」と改称した・・・。
 とあります。なんと、流転を繰り返しています。連島の人たちにとって、本当に大事なお宮さんだったのでしょう。

薄田泣菫詩碑が
 このお宮さん、境内に薄田泣菫の詩碑がありました。これも、連島最大の文化人の碑を建てるところとして選ばれた、この厄神社の役割がよくわかります。

「大梵交差点」のこと

 また実はこの「厄神社」の下のところに、「大梵」という交差点があるのです。この連島にはほかに「どんどん」「やっとこ」という変わった名前の交差点があるのですが、この「大梵」もその一つで、なぜこの名前に?と疑問に思うところでした。
 「梵」といえば、梵天様が頭に浮かびますよね。「梵天様」と言えば、バラモン・ヒンズー教というインドの宗教の神様です。それが仏教とともに日本へ渡ってきて、各地で祀られているのです。で、なぜこの交差点の名前に・・・と思っていたのですが、今回一つの解を見つけました。
 この厄神社の境内になるらしいのですが、車で上がっていく途中に「大梵天社」という小さな社がありました。例によって、明治の廃仏毀釈で名前を変えさせられているようで、 「佐田神社」また「伊吹神社」とも呼ぶようです。
 江戸時代までは「大梵天社」として結構有名だったのでしょうね。それで、現在の交差点の名前に・・・。納得です。(2017,3)  

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