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新田地帯の検地帳は2重帳簿?

 前回、「高沼村検地帳発見」というニュースをお知らせしましたが、今回は実はその「検地帳」なるものに『裏』があったということをお伝えしましょう?

 高沼村(現在の倉敷市帯高、早高地域)は江戸時代の前期に、海を閉めきって出来た新しい土地、新田です。 1662年の最初の干拓は水が得られなくて失敗、1693年の再開発後ようやく水が来て作物が出来始め、1713年に検地となっています。最初の干拓から稲が実り領主が年貢を取れるまで実に51年かかっています。

検地の時には長い竿で

 で、そのときの「検地帳」が前回お知らせした「高沼村検地帳」というわけです。で、その「検地」、もう少し後の干拓地(新田)である倉敷市茶屋町では「7尺2寸2分(約2.2メートル)のさおを一間ざお(約1.8メートル)として測量し」(親と子の茶屋町史)たとされています。ではこの高沼村はどうだったのか?
 その疑問に答えてくれる記事がありました。「倉敷市史第八号」(1998年)という倉敷市から発行されている小冊子に、元山陽新聞記者で倉敷市史研究会会員の片山新助さんの「耕地面積は領主台帳の一.五倍、備中南部の児島湾干拓地帯」という記事があったのです。

公畝と有畝、田んぼに二つの面積が

 片山さんはこのなかで「江戸時代、田畑の面積は、領主台帳に記載された公畝と、実際にある面積の有畝があったことは知られている」と書かれています。そして早島(現早島町)の溝手家文書から土地の売買証文を例に出しておられます。
 これは享和元年(1801)高沼村の藤四郎という人が土地を売った証文で、「北割中開 410番地(9畝3分)、416番地(8畝25分)ほか(合計2反4畝3分)」を売り渡したというのです。検地から80年後のことです。
 で、今回調べてみますと、この410、416番地とその面積がさきの「高沼村検地帳」の記載とぴたり一致しているのです。おーすごい!!
 そして片山さんの資料には別に「(付帯文書)覚」というものがあって「御公畝2反4畝3分・・・・有畝3反8畝9分7厘・・・」なんて書いてあるというのです。片山さんの解説ではこの「公畝」とは領主が公に認めた徴税のための面積で、「有畝」が実際の面積だというのです。
 あ、やっぱり検地のときには長い竿で図って面積(公畝)を出すが、売買などのときには「検地のときの竿の長さ」が記録されていて、実際の面積も参考にしながら売買が行われていたということのようなのです。また売買に際して新たに「計りなおし」することもあったようです。

作物不良のところからは多くの年貢は取れません、と

 岡山県南部(備前備中)の新田地帯は、江戸時代前期の日本では抜きん出て多い面積を占めていました。しかし新田は海の塩気がなかなか抜けなくて、作物もなかなか取れなかったようで、領主もいろいろと配慮せざるを得なかったようですね。それで検地帳も公畝有畝といった、公認された事実上の「裏帳簿」的なものがあったようなのです。
 この公畝と有畝の比率は、地域によって様々で、高沼村の先の例では一.六倍(百六十%)ですが、片山さんの例に出る溝手家文書の売買証文二十二件では百二十九~二百三十三%で平均が百五十三%となっています。当時の領主(早島、帯江は戸川家)はこうして新田地帯の農民の優遇策を取り、結果、江戸時代を通じて戸川五家(いずれも旗本)領内では一揆が一度も起こらなかったと言われています。

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