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帯江戸川氏家老の子孫はキリスト教を

 私のところへ電話がかかってきたのです。「帯江の歴史」の本が欲しいと。倉敷市街地の中心部に住むMさんでした。そのMさん、口を開くなり「あなた、帯江戸川の家老だった、秋田家のことをご存知?」とおっしゃいます。えっ、そういえば江戸時代の帯江では、領主の旗本戸川氏のことや、平松、尾崎、長瀬といった庄屋家のことは取材しましたが、家老についてはいままだ調査できていません。正直に話して教えていただきました。

帯江小学校のところに屋敷があった

 「今の帯江小学校のところにその秋田家の屋敷があって、小学校建設のとき寄付して、元の帯江陣屋あとに移ったそうなんです。そのとき大きなひいらぎの木があって、それだけは残してもらうように言ったそうです。」
 私には耳新しいお話ばかりでした。『帯江村史』を見ますと、「帯江戸川家諸士一覧」のなかに、たしかに秋田多喜右衛門の名が見えます。家老は2人、陶浪(すなみ)氏と秋田氏で、秋田氏は70石どりの江戸詰め家老だったようなのです。
 「そうです。ここは代々書が良く出来て、そのために江戸家老になったそうです。」
 そうすると、当時の戸川家の江戸での諸事万端を切り回していたのでしょうね。
 「明治になって、殿様(戸川安愛=晩香)についてこの帯江に帰ってきて住んだと言うことです。」
 下の写真は明治から大正時代の秋田家と家族写真

古い聖書が目の前に

 「これを見てください。」と目の前に出されたのは特別に古い本でした。「大正の頃の旧約聖書です。家老家の子孫の秋田三代吉さんがキリスト教になりましてね・・。」
 「私の姑さんは、この人の娘でこのM家に来たのですが、キリスト教を捨てないでがんばって、いろんなものを残してくれたんです。」
 「秋田三代吉さんは、柳井原の教会の創立にもかかわり、当時(大正の頃)では有名な方だったようです。柳井原の教会は、『小さな教会』ということで、関西のTVでも取り上げられたり、新聞でも報道されたりしています。」
 なになに?柳井原?、たしか高梁川の西にそんなところがあったような?。これは行って見なくてはなりません・・・ということで・・・。

柳井原のハリストス正教会のこと

 行ってきました柳井原。今回倉敷市に編入合併された船穂町の北部、高梁川に沿った長い部分、こんなところにこんなに多くの集落が・・・と思わせるようなところでした。道の入り口には「柳井原ハリストス正教会」という案内板もあって、「あれっ、有名なんだ」と思わず言ってしまいました。
 「私らが嫁にきたころは、ここらはまだ沼地で、あの小学校もあとで高いところから移ってきたんですよ。この道も池の中のかまぼこのような道だったんです。」地元のおばさんたちは、昔(といっても30数年前のことです)のことを雄弁に語られます。
 古い小さな教会はすぐに見つかりました。お隣に同じく小さなお寺さんがありましたが、「あそこは昭和40年代に、大阪の教会を建て替えるとき、僕らが行ってもらい下げてきたんですよ。」と現地の方がお話されたとおり、わりと新しいもののようでした。最初に学んだのは「ハリストス正教会」というのは、ロシア正教の教会だということでした。全国でも少ないロシア正教。そのなかではこの柳井原は少々有名になってしまったようでもありました。どうやら現地では「浅野」さんが中心になっておられて、その浅野家と我が秋田家とは、因縁浅くない関係のようで、現地の浅野家の系図にも、秋田家が色濃く登場していました。

秋田ニカノルさんのお墓

 秋田三代吉さんは、別名ニカノルさんと言ったようなのです。キリスト教では聖名をいただくようで、お墓にも刻まれていました。
 おっと、ここでMさんに一王子神社のうらにある秋田家のお墓に案内していただいたのです。多くのお墓の中に、そこだけ十字を刻んだキリスト墓が並んでいました。キリスト正教会のHPに、「かって加須山で布教が」とありましたが、その証拠がここに・・・と思わせます。「秋田ニカノル三代吉」なかなかお目にかかれないお墓に遭遇しました。私にも貴重な経験です。ありがとうございました。
 その秋田家のお墓のなかに「先祖墓」というのがありました。大正の頃(おそらく三代吉さんが)江戸の玄照寺(帯江戸川家の菩提寺でもある)からここへ移したという、4人のお墓と戒名が刻まれています。
 そのなかに「秋田蘇世老翁」として出てくる人。『秋田多喜右門』とありました。むむっ、『帯江村史』の記述とぴったりあってしまいました。それにしても「蘇世」とはしゃれたお名前です。多喜右門の名で江戸家老を勤めるほかに、何か文化的な活動をされていたのでしょうか。昭和になってのこの家のご子孫にも秋田蘇世という人が登場します。「先祖の名をいただいた」と聞きましたが、いよいよ蘇世さんのことがもっと知りたくなりました。

 一方中帯江の今村家という早島戸川家の家老の家では、「庭瀬から付け家老としてきた」と伝えられています。この秋田家もおそらく江戸の初期に、庭瀬藩から帯江知行所が分家するときに、付家老としてきた家だったのでしょうね。さらなる調査が必要かもしれません。(2006,4)

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