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天城の歴史かけ歩き

 倉敷市藤戸町天城(あまき)、倉敷市中心部から東南へ約5キロ、かっては岡山備前藩の支藩天城池田家3万2千石の陣屋がおかれた街です。今でも古い町並みが残るほか、新興の住宅団地が広がっています。  実は我が家から近く、帯江地区とは中学校区が同じという関係なのですが、郷土史ではこれまであまり調査してこなかったところです。というわけで今回駆け足でしたが、ざっと全体を見て回りました。

源平合戦の古跡も

 天城地区は源平藤戸合戦の倉敷市藤戸と倉敷川をはさんで向かい合い、経ヶ島や笹無し山など源平合戦の古跡も残されています。
 藤戸地区から盛綱橋を渡り天城地区へ。すぐに右に折れて少し行ったところにあるのが経ヶ島です。源平合戦のあと、佐々木盛綱が犠牲者を供養するため、経典を埋めたところだそうです。小さな森の中に10mくらいの高さでしょうか。岩山があります。上やあちこちには祠も。 ーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーー

天城陣屋跡は高校のグランドに

 天城高校の横から少し山へ上がって行きますと「天城陣屋跡」の石碑が見えます。おとなりは天城高校のサブグランドが。野球部が使っているそうですが、周囲が一望に見渡せます。この好位置に池田家は陣屋を築いたのでしょうね。

天城池田家は岡山の池田宗家の本家筋・・・とは

 なんでもこの天城池田家、岡山藩初代池田輝政の父池田恒興が嫡男元助と共に、小牧・長久手の戦い(1584)で戦死し、池田宗家を次男輝政が継いだため、幼少だった元助の嫡男由之(よしゆき)は叔父輝政に仕え、伯耆米子3万2千石を領したと言われています。その後池田藩が岡山へ移ると、2代由成(よしなり)が下津井城主となるのですが、一国一城令で下津井城を放棄、ここ天城の地に陣屋を構えたとか。そのため「天城池田家は岡山の池田宗家の本家筋」ともいわれるようです。
 また3万2千石とはいえ、外様大名の支藩なので、「陣屋」とはいわず「お茶屋」と称したとか。いろんないきさつがあるのですね。

池田家墓所

 陣屋跡から天城高校をぐるっとまわり、町並みに出るすぐ手前の桜並木を上に上がって行くと、「池田家墓所」があります。玉垣に囲まれたいくつかの立派なお墓です。「池田和泉源正純之墓」、ふむふむこれは6代さんのお墓ですね。(写真左)
 「池田由勝(4代)」あ、この方のとき赤穂事件がおこり、この藩は大石良雄の縁戚であったため、2千石を減らされて、3万石になったとか。(写真右)

 「池田由成(2代)」この方がここの初代なのですね。(下写真左)
 「池田由孝(3代)夫妻」「池田政孝(8代)」「池田政徳(9代)夫妻」「池田政昭(10代)夫妻」。(下写真中)
 「池田政和(11代)」 この方が明治に男爵になった方(明治24)(下写真右)
 そして「池田政佑(12代)」と次々に見つかりました????江戸時代を通じて岡山池田家の家老を勤めたようですね。

 

 あれっ、数が合わない。

菩提寺の海禅寺

 旧町の北側、天城台団地に近いところに天城池田家の菩提寺、海禅寺がありました。意外と小さいんですが、風情を残したお寺さんです。おや、正面の古い石橋が印象的です。

陣屋町の風情を残した町並み

 この陣屋跡を中心に、ぐるっと取り巻くように古い町並みが残されています。倉のある古い家がいくつも続きます。幕末のころは岡山からの金毘羅街道もここを通り、ずいぶん賑わったと聞きました。
 その町並みの中心辺りにあったのが、元の大庄屋中島家の住宅です。大きな門構え、高い塀で中はうかがえませんが、ずいぶん広い敷地だなと感じました。「今は誰も住んでいないです。昔は自分のところの田んぼだけ通って、隣の茶屋町までいけたとかききましたけど。」と近所の方が教えてくださいました。

岡山県で2番目に古いキリスト教会が

 その中島家の隣にあるのが、なんとも対照的なキリスト教会です。なんでもここでは明治のはじめからキリスト教の布教が行われてきたそうで、この教会は高梁のものに次いで、岡山県下で2番目に古いものだとか。明治の教会建築がここに残されていたのです。

広田神社のこと

 この天城一帯はかっては広田島と言って、児島の藤戸とは流れの速い狭い海峡を挟んでいたそうです。その象徴として「広田神社」がまつられています。  「あ、そういえば「川子岩(ゴーゴイワ)」伝説はここの古文書が元になっているんだ。」思い出しながら永い石段を登っていきました。
 本殿、拝殿は立派ですが、前の広い施設などは屋根が今にも傾きそうです。地域の方が「広田神社は神主さんもいなくなり、寂しくなりました。天城全体が次第に寂れていっている象徴みたいです。」といわれましたが、なかなか考えさせられることですね。

そして「下津井電鉄跡地」

 かって、茶屋町からここ天城、藤戸を通り、児島まで延びていた下津井電鉄は、この広田神社の下を通っていました。今は自転車道になっています。茶屋町側はたくさんの桜が植えられ、春にはにぎわうところです。
 今日は訪ねて元の天城駅跡を探しました。広田神社下から南へ徒歩10分くらいでしょうか?牛乳屋さんがあります。そのお隣でした。「ここです。この倉庫みたいなものも天城駅の施設<写真中)でした。この向こうに改札があったのですよ。」ちょうど出てこられた牛乳屋さんのおばあさんはなつかしそうに話をしてくれました。
 下津井電鉄はここからさらに南へ、すぐ先で倉敷川を鉄橋で渡り(写真右)、藤戸地区へと走っていったのでしょうね。
 1972年茶屋町児島間が廃止されたといいます。一度全線を自転車で走ってみたい衝動に駆られますね。アップダウンがきつそうですから、一日では無理でしょうか?(2010,3)

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