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冊子『有城郷土史』が発行されていました

 この帯江地区の西部には倉敷の市街地近くから天城へと続く山があります。ほぼ中心部の小瀬戸で2つに別れるのですが、最高部が標高100m(向山)、あとなだらかに低くなりながら北西から東南へと約2キロ続く山岳地帯です。
 古代には吉備の穴海に浮かぶ島であったと考えられ、その北端には前出の羽島貝塚があるのですが、その南端にあるのが有城(ありき)地区です。
 山すそに沿って人家が密集し、倉敷市埋蔵文化財センターの「文化財所在地名一覧」(以下『文化財一覧』)では貝塚や古墳も記録されています。そして何よりも約800年前の源平合戦のおり、源氏の本陣がおかれ、数々の史跡で知られる土地です。
 「帯江の歴史」では羽島貝塚のあとはこの有城がテーマにうかんできそうですね。そこでかっての同級生の一人に電話してみました。

多津美中グランドに消滅した古墳のこと
 「そうじゃ。今多津美中のグランドになっとるところに昔古墳があったのはよう覚えとる。私らも小さい時よく遊びに行ったもんよ。ちょっと掘ったりして。今テニスコートになっとるところで、小高い山になっとったなー。」
  『文化財一覧』では「多津美中学校古墳、消滅」としかありません。後出の藤原こう平さんは、「あそこは岩盤が固うてのう。多津美中の建設(昭和36年、1961)の時、地元ではようせんで、浜松の自衛隊が請負ったんじゃ。それで古墳も何もかも吹き飛ばしてしもうたんよ。」と言っておられました。
 ああ残念。今なら校庭の片隅に公園化して残すということも考えられたでしょうが。当時は建設前の文化財調査などは行われなかったのでしょうか。後日でもここの出土物などにおめにかかりたいものです。また現存するもう1つの古墳も調べたいものです。
 ところがこの友人が次に言い出したのです。
 「それより有城には歴史に詳しい人がおってじゃから訪ねてみたらどうじゃ?」有城の歴史は白紙同然の私にはこれほど嬉しい話はありません。

昭和50年発刊 『有城郷土史』
 友人から紹介されたその人の名は藤原こう平さんでした。
 ところがこの藤原さん、電話口で驚くべき話をされたのです。
 「ああ、その(もう1つの)古墳なら、うちの藪の中にあります。それと私の父がだいぶ前に出した有城の歴史の本があるから一冊さしあげますよ。」
 えっ、すごいお話です。小躍りしながらご自宅にお訪ねして、いろいろとお話をうかがいました。
 「これが父親(藤原喜一氏)が出した本です。」
 『有城郷土史』というA5版40頁ばかりの本です。藤原喜一(愛石)さんが昭和50年(1975)に発行、地域内200戸に無料配布したものとあります。
 古墳時代から現代までの有城の歴史を資料をもとに詳しく書いたもので、この「帯江の歴史」でもこれから時々引用させていただくことになりそうです。
 市町村単位の歴史本はたくさん発刊されているのですが、このように旧大字単位の歴史書は県下では初めてだと当時の山陽新聞にも取り上げられています。
 この文末にこの『有城郷土史』の冒頭部分を引用します。

上へ上へと続く家並み、歴史を感じる集落『有城』
 「では行きましょうか。」藤原さんが立ち上がったのは、有城に残るもう1つの古墳「摩利支天古墳(『文化財一覧』による)」を案内していただくためでした。それにしても「うちの藪の中」とは・・・・。
 「これが昔の有城の本道です。」人一人がやっと通れる坂道が家と家の間を縫うように山の上へと続いています。上へいくほどに、左右に家でなく、古い屋敷跡とみられる平地が残っています。
 「こうして上へ上へと家が建って住んでいたんですな。ああ、ここがうちの本家の古屋敷跡です。」
 
 いくつかそうした屋敷跡を経たあと、道は竹薮へと入っていきました。
 「私のじいさんが買ったらしいんだ。」たしかに「うちの藪」なのです。
 「あ、このむこうが女子短大だ。」なるほど塀のようなものが見えます。高坪山、霞山、雲山、宮山と北から南へと連なる有城の山のうち、雲山全域を買い取って昭和47年(1972)に開校した”岡山女子短期大学”です。どうやら目的地はすぐのようです。

有城の古墳、摩利支天古墳のこと
 有城で著名な2つの古墳は、多津美中、岡山女子短大と2つの学校建設で脅威にさらされ、1つは消滅、1つはわずかに範囲から外れたため残ったようなのです。
 行く手にふと眺望が開けました。
 「これがそうです。」

 目の前の小さな山の頂上と見られるところが広場のようになっていて、中心に石の塊が見えます。横から大きな木がそびえたっているのですが、回りこんで見ますとぽっかりと石室の口が開いています。人一人這いこめるでしょうか?。でものぞいてみますと内部は意外と広く、思わず「わっ、大きな石室ですね。」と声を上げてしまいました。
 「昔はあの奥へみんなで入って博打を打っていたんじゃ。」と藤原さん。数人が車座になって・・・という姿が目に浮かんできます。
 「ここから見るとむこうの粒江まで当時の海が一望やろ。いい所へ築いたもんだ。この石室も長い間に上の土が洗われてしまったんじゃな。石も昔はもっとしっかりしていたんじゃけど、盗まれたものもあってな。」と藤原さん。
 見ると古墳の頂上に「摩利支天」と書かれた石碑があります。後世に祭られたものでしょうがこれがこの古墳の名前となったのでしょう。
  また「帯江村史」では「摩利支天塚」として、およそ次のように記述されています。

 『有城御崎八幡宮の北5丁(500m)の竹林にある。有城の貝殻畑はその北20間(約40m)にある(今は女子短大敷地内になった有城貝塚のこと)。円丘(円墳)。高さ8尺(2.4m)径40尺(12m)、入り口天上石長さ45寸(1.35m)、厚20寸(60cm)、入り口 巾27寸(81cm)、高埋没1尺7寸(39cm)に過ぎず。石室 行16尺5寸(約5m) 巾45寸(1.35m)、高さ4尺(1.2m)、奥鏡石一枚。』(一部口語訳、注も筆者)

 また明治九年頃小林庄次郎という人が発掘して、曲玉、管玉、土器等が出たとあります。
 『文化財一覧』では「古墳時代後期」とありますから、5~6世紀ということになります。この有城の地の古墳時代にこのような大きな古墳を築造するような豪族が住んでいたことは間違いないようです。
 次に有城が歴史に登場するのは12世紀末、源平合戦になるわけですが、古墳時代から白鳳、奈良、平安と6~700年間、おそらく帯江地区では唯一、集落というか”都市”として機能したであろうこの有城の地の主な産業は何だったのでしょうか。吉備の各地のように水田が広がっていたとは思われませんし、漁業か塩業ということになるのでしょうか?

 藤原こう平さんのお話はまだまだ続きますが、ここは項を改めたいと思います。(2001,5)


『有城郷土史』藤原喜一著、昭和50年発刊から抜粋
 まず有城(もとは有木と言うていた)は、いつ頃出来、いつ頃人が住みかけていたものか、これを帯江村史で見れば、応神天皇(15代1861年前)、仁徳天皇(16代1660年前)の時代拓地殖民が盛んに行われ古墳の造営も出来ていたとある。岡の塚の摩利支天塚もその当時の豪族の墓でありこのことを立証している。当時は倉敷、羽島、有木の一帯が阿智の郷に属していた。即ち弥生式文化時代で、以前は石器本能であったのが金属器がはじめて用いられ農耕にも使用されたとある。岡の塚に釜の跡があるのも当然と思う。
 ずうっと下って、寿永3年12月7日、後鳥羽天皇(82代792年前)藤戸合戦があり佐々木盛綱浅瀬を渡る、即ち源平合戦である。当時有木高坪山は源氏の本陣であったことは衆知のことであります。・・・・・・・・・・


 当時の山陽新聞記事から

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