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佐々木盛綱が源平合戦戦勝記念で造ったお宮

 「これが御崎神社です。ここで源平合戦(藤戸合戦、1184年)があって、その戦勝記念に佐々木盛綱が山の上の祠を移して建てたものです。」  2001年5月のある日、有城の郷土史家藤原こう平さんに摩利支天古墳を案内していただいた帰り、ふと平らなところにでました。見ますとお宮さんです。ちょうどお祭りの日で社殿は開けられ、お供えがしてありました。

本殿のあの柱や本体は800年以上経ったものです
 「この本殿のあの柱や本体は800年以上経ったものです。」
 なるほど、立派な社殿です。
 平安時代末期、一の谷の合戦で敗れた平家と、攻め来た源氏との戦いがこの有城(源氏方本陣)と粒江(平家方本陣)の間の浅い海(当時)を挟んで戦われたのです。1184年(寿永3年)12月のことで、『藤戸合戦』といわれます。ここでも敗れた平家は四国屋島へと落ちていくことになるのですが、この藤戸合戦で源氏の先陣として佐々木盛綱が大きな手柄を立てたという話しは、私達の土地「帯江」ではあまりにも有名なお話しです。戦死者800余騎という激戦であったそうです。
 そしてそこには地元の漁師(浦の男)の悲劇の物語がからむのですが、奇襲を成功させて勝利の立役者となった佐々木盛綱が、出陣前に祈った山の上の小さな祠を、その後この岬に移して本殿と木の鳥居を立てたというのです。岬の神社という意味で「御崎神社」と言われてきたそうです。
 「源氏も本陣を敷くのに、全く人家のない所へは敷かないと思う。この有城の地が、本陣の後背地としてそれなりの経済力を持っていたとおもうんだけどな。」藤原さんの解説にいちいちうなずきながら、カメラのシャッターを切るのに忙しかった私でした。
 それにしても、「帯江の歴史」という以上、この源平合戦」についてはいつか詳しく取材して書き込まなくてはいけないのでしょうね。テーマが大きすぎてちょっと気が重い?のではありますが。

有城では昔、塩作りが行われていた?
 「これが浜宮様といって、この御崎神社の前の有城のお宮さんです。だからこちらのほうが本来の有城の氏神様だったといえるんです。」
 藤原さんは、御崎神社本殿右横の少し小さい社殿を指差されました。
 「これは塩の神様だという話しです。」
 なるほど、さきの「有城郷土史」にはつぎのように書かれていました。
 『浜大明神は嘉応の頃(1169~1175)この有木の地の塩竈の守神としてまつられていた』(有城郷土史より)
 それで納得しました。耕地も狭いこの有城の土地が、なぜ古墳を持つほどの集落として、おそらく数百年の間栄えてきたのか・・?
 どうやらここでは製塩が行われてきたのではないか、そう考えるとすべてが納得できるのです。いつの時代も塩は貴重です。この帯江丘陵の南端に位置した一つの集落は、漁業はもちろんでしょうが「製塩」を一つの生業として古代から中世にかけて栄えてきた、と推測するのは飛躍しすぎでしょうか。このうえは、この有城の古墳出土という遺物などがどこかで見つかり、そのなかに製塩土器でもあれば・・・などと夢見てしまいました。

ここから海だった証拠の池!
 「昔はこの先は海だったんですよ。この池がその証拠として残っています。」
 耳を疑ったのはこの藤原さんの一言でした。そこは御崎神社の石段を降り切ったところ。5mばかりの道路になっているのですが、その反対側になんと小さな池があるではありませんか?。この池が「ここから海だった証拠」として有城の人たちに、おそらく何百年もの間守られてきたというのです。何ともすごいお話しです。
 「今はこの道路の下になってしまいましたが、このあたりに昔佐々木盛綱が立てた、御崎神社の木の大鳥居の切り株があったんです。」う~ん。有城の歴史はさすがさすがでした。(2001,5)

御崎神社の現在の鳥居由緒の看板
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