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戦後、米軍による農村調査が帯江に

 帯高の歴史編さん委員会でのことです。「そういえば戦後すぐ米軍が来ていろいろ調べていったことがあったっけ。確か○○家などにもきているはず。」という発言がありました。
 で、調べてみますとそのときのことが「帯江村史」の四百九十六ページから詳しく書かれていました。

農地改革の影響調査で全国14カ町村で実施

 帯江村史では「昭和二十三年十二月連合軍総司令部天然資源局では、日本における農地改革によって、思想的に又経済的にどう変化しているかを調査のためアーサー・エフ・レーパー博士の一行が来村し、各般にわたる詳細な調査が行われた」として三十ページにわたって資料を含めて詳述しています。
 この調査は全国十四カ町村を選んで行ったもので、北海道から九州までに渡っています。都窪郡帯江村は当時の典型的な農村としてそのなかに選ばれたもののようです。中国地方ではほかに島根県飯石郡吉田村のみです。
 調査は三日間で、その後の追加調査として資料のやり取りなども行われています。
 調査内容は、村の地図、土地利用の様子、農家非農家の実態、村の諸会合の様子、家族状況を含めたその他の諸統計資料など、多岐に渡る非常に詳しいものでした。また学校視察や村内巡視なども精力的に行われています。
 そこには「レーパー博士の精力絶倫さには感服の外はない。連日憩いのひまもなく調査視察指導に当たられたが・・・云々」(帯江村史)と表現されるほどの調査だったようです。

帯高地区でも実態視察

 レーパー博士の村内巡視は羽島の羽島焼や中農家庭を手始めに、加須山でトラクター中耕の様子、亀山で動力織機による畳表製作状況、そして最後に帯高のところでは、

 「灌漑用水機 モーター使用によるもの、動力馬力 灌漑反別経費等」
 「巡回途中路傍にて地蔵尊(藤の棚三面地蔵と称す)に眼を止めて、その由来信仰上の行事等に関し尋ねられた。」
 「大農家庭に就き 農具の種類 籾殻製炭の用途 農地取得の面積 管理 農地改革に関する意見 農地の分散状況 農業会と農業協同組合との比較その意見利害得失等」

 などとなっています。

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