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倉敷市二子のこと
ー不明の4観音はどこへー

帯江戸川家の知行地に飛び地がありました

岡山県総合文化センター(岡山市天神町)で県立図書館を訪ねた時のことです。廊下に江戸時代の各領主の領域地図が掲示してありました。何気なくみていました。ここが帯江戸川家領地(旗本の場合知行地というそうですが)なんだな、などと納得していますと‥‥、何か同じ色のところが右上に少し離れてあるのです。あっ、これってなんだろう。
場所は折り良く図書館。さっそく郷土資料のコーナーで探してみることにしました。司書さんに教えていただいたのは、「庄村史」というのがあるということでした。地図の位置がちょうど旧庄村のあたりらしいのです。
その「庄村史」には当時の帯江戸川領として、当時の二子村およびその周辺がそうだと書かれているではありませんか。これは盲点でした。こんなところに帯江戸川家の飛び地があったのです。も、もしかしたら帯江西国33観音で、不明の4観音(7,22,24,28番)の行方がわかるかも知れません。

もしかしたら?不明4観音捜索の旅!

喜び勇んで現在の倉敷市二子地区とその周辺調査に行ってきました。倉敷市の東部、清心高校のある小山の一帯で主要な集落は北側にありました。弥生大集落で有名な上東遺跡の西側の山すそに広がる集落が二子だったのです。神宮皇后の名も出てくる古い歴史のある地域のようです。
「う~ん、観音様かな。聞いたことないのお。お寺さんに行って聞いてみたらどうかな?」最初にお会いしたお年寄りは不思議そうな顔をされました。 そこで教えられた利生院というお寺をお訪ねしました。お住持さんは 「知りませんねー。この裏山に私のじいさんが作った八十八ヶ所があるんですが、三十三観音ねー。ここ二子では寺はうちだけですが、聞いたことないです。」とおっしゃいます。
裏山にも上ってみました。小さい社の八十八ヶ所が点々とあるほか、八幡宮もあったようですが、あの船形石の観音様はかげも形もありません。 お寺の前に道路工事の時山の上から下ろしたという観音堂がありましたが、中は小さな社で、帯江三十三観音とは全く別のものでした。

消えた四観音はどこに

「う~ん。これは見込み違いかもしれないな。」少々がっかりしながらも、二子地区やその東、庄地区を歩き回ってみました。所々にお地蔵様はあるのですが、もしかしたらそれに並んでいるはずの観音様はどこにも見当たりません。庄地区の2つのお寺でも「聞いたことがない。」というお話。空振りの旅は私の足にも急に重さを加えたようでした。

PS:帯江戸川家の知行地にはほかに「宮崎村」というのがあります。今の早島町宮崎のことです。近くですので行って探してみましたが、どうもそれらしいものはないようでした。(2002,2)

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