~源平藤戸合戦と帯江~その1 『謡曲藤戸』に誘われて、やってきた帯江 |
『浦の男と佐々木盛綱』、源平合戦後日談 |
謡曲というのは『能の謡い』の事を言うんだそうです。逆にいえば能は謡曲に合わせて舞う。
そのなかの『謡曲藤戸』。執念物のひとつで、
『源平藤戸合戦(1184年)で平家陣に一番乗りを果たした源氏の武将佐々木盛綱が、恩賞にもらった児島の地にお国入りを果たしたます。そのおり盛綱に海峡の浅瀬を教えて手柄を立てさせながら殺されてしまった漁師(浦の男)の母親が現れ、恨み言を述べるのです。我が子を返せ戻してくれと、泣き叫び転げまわる老女を前に、盛綱は当時の模様を白状して詫びます。そうして漁師のために盛大な法要を営んでいるところに、その漁師の亡霊が現れ再び恨み言を言うのです。』といった筋だそうです。
世阿弥元清(1363~1442)の作とか。
この能を見た、時の将軍足利義満が感激して、漁師が沈められたという「浮き州岩」をわざわざ都へ運ばせたという話しや、能に詳しかった豊臣秀吉がその岩を聚楽第の庭に据えた(後に京都醍醐寺三宝院へ)という話しまでが残っているそうなんです。この岩は「藤戸石」という名で現存するそうです。
ということで、宮口さんのてほどきながら帯江の歴史取材のなかで、またまた古典芸能の知識を仕入れてしまった私でした。
我が子返させ給へやと(冊子「源平藤戸合戦」から) | 刺し通し(同) |
『身もだえして、いかにも悲しげに訴えるんですね |
「『謡曲藤戸』は私がまだ子供の頃見たんですが、漁師の母親が出てきて、いかにも悲しげに訴えるんですね。身もだえして。あらすじなどはよく覚えていないんですけど、その強い印象は今でも目の前に浮かぶ様なんです。」
「『藤戸に来た、藤戸の渡しにきた・・』という繰り返しの台詞は、もう何十年も私の頭の中に、おおきくなったりちいさくなったりと鳴り響いているようで・・・。」宮口さんは遠い眼をして語られます。
「主人の転勤で水島に来ていた時、あの藤戸がこの近くだと知ったんです。本当に驚きました。それで地域の史跡巡りのグループに入れていただきまして。」
「あるとき、藤戸古戦場巡りの後、この団地の分譲広告が目につきましてね。何と言うことは無くついふらふらと買ってしまったんです。それでとうとうここを終の棲家にしてしまいました。世の中すごい縁があるものですね!。私って浦の男(漁師)の亡霊にでも呼ばれたのかしら?」
う、う~ん。何と言えばいいのでしょうか?。820年前と今、何かつながっているのかもしれませんね。
この帯江で生まれ育った者として、ここが源平合戦の帰趨を左右した藤戸合戦の地であることや、浅瀬を教えて殺された漁師の母親が「佐々木と言えば笹まで憎い!」と山の笹を全部ひきちぎってしまったという笹無し山伝説などは良く知っていたのですが、室町将軍や豊臣秀吉まで動かすような超有名な能の舞台になっていたとは・・・。すばらしい!!!。
源平合戦と帯江(おさらい) |
ここで少し源平藤戸合戦のおさらいをしておきましょう。
平安末期、神戸一の谷の戦いで敗れた平家は、香川県屋島を根拠に勢いを盛り返し、この近くの粒江の種松山から藤戸にかけての山裾に、2000艘の船団を仕立てて陣を構え、今にも京都を奪回しようという勢いを示します。
これを聞いた源氏方は陸路2万の軍勢で西進してきて、日間山から高坪山(山陽ハイツ近辺)にかけて陣を敷き、平家方と藤戸海峡を挟んで対峙します。当時はこのあたりの平地は、まだほとんどが海だったのです。
今の帯江地区はみな源氏方の陣だったわけで、今の日間山法輪寺が源氏本営だったと伝えられています。しかし源氏方には水軍がないため海を渡れず、平家方にあざ笑われ口惜しい思いをしていたそうです。
源氏の武将佐々木盛綱は、ある時浜で漁師(浦の男)に出会います。盛綱は彼に短刀を与えて、かわりに海の浅瀬を教えてもらうのですが、秘密が漏れるのをおそれて、その漁師を殺してしまいます。
翌日盛綱は漁師の教えたルートを伝って、藤戸海峡を馬で渡り、平家陣への一番乗りを果たします。これをきっかけに平家方は総崩れとなり、その後の屋島の戦い、壇ノ浦(山口県)の戦いで滅亡してしまいます。
こうして平安時代から鎌倉時代へと移る、時代の転換点に、この帯江の地はその決定的な役割を果たしているのです。
現在帯江に残されている遺跡としては、佐々木盛綱が海へ乗り出したという『乗りだし岩』、法輪寺にある『源氏本陣跡の碑』、有城から天城に入ったところにある『笹無し山』などですが、次回はお隣の粒江や藤戸地区の古戦場跡をご紹介することにいたしましょう。(2003,5)
乗り出し岩 | 法輪寺にある「源氏本陣跡」の碑 |
笹無山全景 |