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カッパ伝説・ゴーゴ岩(川子岩)

 「ゴーゴ岩って知っとるか?」
 『えっ、何?それ?』
 「いっぺん、行ってみい。すげーから。」
 こんな会話があったのは、まだ3年ほども前のことでしょうか?。地元の大先輩との会話でした。実は私、郷土の歴史を調べ始めてもう数年になるのですが、それまで「ゴーゴ岩」を知らなかったのです。しかも我が家のほんの近く、2キロ以内にあったのです。お恥ずかしい・・・。

六間川におおきく突き出た岩

 早速行って見ました。蔵水門を西へ渡り、南へ。さらに土手を南へ進みます。途中で「備前備中境石」という歴史史跡も見ながら、土手が曲がったあたりから草をかき分けて川岸へ突進します。えっ、そうです。別に「突進」しなくてもいいのですが、当時の私の気分はまさにその通りでした。梅林(桜かな?)を抜けたところに水面が見えます。そして、そのむこうに・・「あっ!」と驚くような巨石が、六間川の水面に突き出ているではありませんか。
 真っ黒い岩で、なんでこれがこんなところに?と思わせるものでした。
 最初の会話のときに、この場所は昔から六間川を通行する船の難所で、また船着場にもなっていたと聞かされてきました。

カッパ・かっぱ・河童・川子・ゴーゴ、そして地名も

 『ゴーゴ岩』というんだそうです。えっ、『ゴーゴ』って??
 そう、何でもこの地方では、「かっぱ・カッパ・河童」のことを「ゴーゴ」と言うんだそうです。えっ、知らなかったのかですって?。そう私、これも知らなかったのです。これまたお恥ずかしい。
 河童は昔から「水の中に住んでいて、子供たちが泳いでいると渕に引き込んで、尻から手を入れて溺死させる。」とよく言われる妖怪です。「カッパに尻子だまを抜かれる」などともいわれます。
 人に似ていて、まあ、最もポピュラーな妖怪と言ってもいいでしょう。頭にお皿を持っていて、これが乾くと死んでしまう・・・らしいですね?。

 そしてこの目の前の岩には、昔からその河童がすんでいたという伝承が残され、六間川の向こう側、天城地区の集落を「川子岩(ゴーゴ岩)」というんだそうです。「旧藤戸町大字天城小字川子岩」だそうです。藤戸町史では「川子岩新田」という名までありました。すごい!ゴーゴ岩って地名にまでなるような有名な岩、いや「お岩さま??」あ、こういうと、何かとまちがわれそうですね?。だそうだったのです。そいうえば、河童があの岩の上に座って、日向ぼっこをしている姿が目に浮かびそうですね・・・。  で、少し調べてみました。

古文書にも出ていました

 私の郷土史の師、池内節光さんが、多津美公民館の郷土史講座で、2001年に解説しておられました。なんでも天城の恵比寿神社(天城長浜)の社歴(広戸神社来歴という江戸時代の古文書の一部)に次のようなことが書かれているそうです。(長浜は昔漁師町でした)

 「長浜から400mほど離れた沖に、南北8m余、東西16m余の河子岩があり(略)。この河子岩のある付近には河童が多く棲んでおって、特に毎月初旬には、この岩間に集まってきていたので、河子岩と呼ばれ(略)。
 また恵比寿宮から4キロ余り北へあたって、宮の前というところがあり、毎月下旬には河童はここに集合していました。それゆえそこをごうごの岩崎といっていました。
 ごうごはこれらの岩間から出てきては、しばしば漁場を荒らし廻りましたので、漁師たちにはさっぱり漁獲がない時がありました。そこで漁師たちはうち揃って恵比寿宮に参詣しお神酒やお供えを捧げて豊漁を祈願したり、あるいは酒肴を設けて老若男女が社殿に通夜をして、歌謡、舞踊に賑やかに一夜を過ごしました。このような時、ごうごたちはどこかへ去って、風静まり、波穏やかになり、漁鱗網に満つというありさまでした。」

 そして、池内さん、「全国には河童のことをいろいろに言っている。河童、カワッパ、川太郎、ガアタロ、カワラコゾウ、えんこう、ヒョウスベ・・・」などと解説され、参考文献として「岩崎宏実『図説・日本の妖怪』」「今石元久『岡山言葉の地図』」などから河童言葉の配置も紹介されていました。

 う~ん、我が家のこんな近くに妖怪伝説があったのです。すごい!(2007,12)

PS:この場所は南の天城側から小道を進入するほうが行きやすいかもしれません。

*河童の画像はAtnet Japan素材を利用させていただきました。 inserted by FC2 system