「羽島貝塚」の物語 ーそこから出た土器は”縄文標式土器”に指定ー |
倉敷市民会館の東300mの地点 |
私も羽島貝塚という名は聞いていたのですが、残念ながらまだ行ったことはありませんでした。そこで倉敷市文化財ガイドマップ(市教育委員会)をたよりに、近くの人に聞きながら探し、やっとたどり着いきました。
倉敷市民会館の横から真東に古い道があります。そこを真っ直ぐに3~400m進んだところ、右側にある児童公園がそれだったのです。立て札に「羽島貝塚」とあり詳しい説明もあります。歩いて見回すとあちこちに小さい貝のかけらが散らばっているではありませんか。「ああ、これが6,000年前の帯江縄文人の捨てた貝なんだ!!」思わず荘厳な気持ちになり、しばらく立ち尽くしてしまいました。
帯江に人が住んだ痕跡として最も古いものという「羽島貝塚」。昭和31年発行の帯江村史にも詳しく書かれていますし、倉敷市史一巻第三章には「羽島貝塚は縄文時代の前期にはじまり、中期・後期へと続く遺跡で、大正九年(1920)に当時京都大学助手だった島田貞彦らが調査、10体ばかりの埋葬人骨を掘り出している。」とあります。
倉敷考古館が戦後に調査 |
「私が大学一年のときのことです」と間壁さん。 |
『羽島下層式土器』は全国の標式に |
縄文時代は約一万年という長い期間があります。その間に作られた数々の土器には、地域性とともにその時代時代の違いと言いますか、わかりやすく言えば流行の流れのようなものがあるのです。そこで各遺跡から出た土器達の前後関係が詳しく調べられ、今では「この種類の土器は約○○年前のものだ。」ということがかなりの範囲でわかるようになっているのです。
羽島貝塚の下から出た土器は、その1つの標式、しかも「前期前半」(6~7千年前)という古い時代の標式土器(基準)となったのです。なんだか『羽島貝塚』ってすごいことになってきましたね。
この土器について、倉敷市史第1巻に間壁さんが書いておられることを引用します。
「縄文時代の土器としては器壁が薄く、表裏ともほぼ全面へ条痕文と呼ばれる浅い平行線が付けられている。ハイガイ、サルボウ(モガイ)、アカガイなどアナダラ属と呼ばれる二枚貝の外面が放射状凹凸線となる腹縁を土器面に押し付けながら整形した痕跡である。底は丸底に作った深鉢形の土器で、表面の上半部には、刺突文や爪形文のほか細かい粘土紐を貼り付けた文様もみられる。口縁の外側を垂れ下がるようにふくらませたものもある。この種の土器は羽島での発見以後、順次西日本一帯で知られるようになり、羽島下層式の名で呼ばれる縄文前期前半の標式土器となった。」
右は、倉敷考古館研究集報第11号「羽島貝塚の資料」にある「羽島下層式土器」の一部です。
また下は、倉敷考古館に展示されている、羽島貝塚出土の土器の一部です。
前期:羽島下層式土器 | 前期:彦崎ZI式土器 |