大庄屋さんは、芸術、学問の家でした |
「幻の文人画家『平松曼容』 |
「私が知っているのは、平松曼容ですね。こんな記事があります。」と言って出されたのは、昭和58年の山陽新聞。「江戸後期の備中の”幻の画人”平松曼容の遺作を発見・子孫の家で2点」などとあります。
1743~1805年の人で、二日市村の大庄屋を勤めるかたわら絵を良く書き、当時の文人画家田能村竹田がその著作でたびたび称賛したことで全国に知られたようです。望月派の大西酔月に師事し、京派の円山四条派の技法を加えて大成した・・・。
「この絵がそうです。」夢中で新聞記事に目を通している私に平木義朗さんが指し示したのが、後ろの額でした。「先日表装をしましたので、ガラスがはまっていますが。」
『高士弾琴図』だそうです。左のほうで琴を奏でる人物(高士)とそれに聞き入る3人の人物。松林の中で今にも琴の音色が聞こえてきそうです。じっと見ていますと、私自身もなんだか絵の中に入って楽しんでいるような気分にさせられます。さすが郷土の大先輩の逸品だなーと感心してしまいました。写真はストロボの反射を避けるためちょっと斜めからになってしまいましたが、すこしでも雰囲気を感じていただけたら幸いです。
伊能忠敬とともに測量に従事した平松紹右衛門 |
「もう一人、伊能忠敬(1745-1818)と測量に従事した先祖が・・」平木義朗さんが箱のなかからおもむろに取り出した数々の品。まさかそんなものにお目にかかろうとは想像もしていなかった私は思わず絶句してしまいました。
曲尺、墨壷、大きな方向磁石、そして何と望遠鏡(遠めがねというんでしょうか?)まで。丁寧に木の箱で保存してあり、とても200年前のものとは思われません。磁石は今でも新品同様に動いていますし、望遠鏡はのぞいてみますと遠くのものが良く見えました。家宝というのは、こういうものを言うんでしょうね。
帯江村史にはこの人を「平松紹右衛門」として次のように紹介してあります。系図では先の平松曼容の孫にあたるようです。
『伊能忠敬は日本全国の実測にあたり、文化2年(1805)の冬たまたま岡山に下った。而してこの地に滞在中紹右衛門は忠敬の門に入り測量の術を学んだ。2ヶ月半にして学習と実習の業を了った。
この時忠敬はこの地方は測量に予想以上の困難がある為め随員を増す事にし、紹右衛門は之に随行することを許され、共に測量にあたったのである。
斯くして岡山以西の沿岸および島々の実測をしつつ西進し、尾道・忠海まで行って、随行をとかれたのであった。この地の第一の測量家である。』(帯江村史595頁)
何と素晴らしい!以前に帯江村史を読んだ時には格別の印象を受けなかったように思うのですが、こうして測量器具の品々を目の当たりにすると、平松紹右衛門さんの事績に感銘を受けてしまいます。あらためてこのような先人をもった帯江という土地の素晴らしさにも誇りのようなものを持ってしまいました。(2004,1)