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山上伽藍だった日間山法輪寺
ーー1200年間帯江に文化を吹き込み続けたお寺ーー

 今年は急に冷え込みが始まったせいか、紅葉がひときわきれいなようです。右から左からまるで迫るように、濃い赤、朱に近い赤、そして紫色のかかった赤、・・・様々な赤が目に飛び込んで来ます。柿の葉っぱも心なしか赤いようです。思わず心温かくなってきます。
 えっ、どこに居るのかですって?。そうです。今日は私、倉敷市羽島の日間山法輪寺の境内を歩いているのです。”日間の山の 花もみじ・・・”と帯江小学校校歌にも歌われているところです。
 仁王門から入って、右に立派な石垣を見ながら歩を進めますと、何かちょっとお城にでも入って行くような雰囲気です。
今日は帯江の歴史を調べるにあたって、一番古いこのお寺さんをお訪ねしました。 『真言宗御室派準別格本山日間山法輪寺』の看板があります。
 ご住職の奥様がご在宅で、いろいろと教えていただきました。

 

東大寺大仏開眼の頃のお寺。江戸時代までは大伽藍だった

 「このお寺は天平勝宝年間に、孝謙天皇の命で小野春道がここへ来て建立したそうです。聖武天皇と光明皇后が薬師如来を大変に信仰していて、孝謙天皇はその娘さんなのですね。それと吉備真備が孝謙天皇の教育係で、この吉備との縁もあったようなんです。」
 天平勝宝年間といいますと、8世紀中頃です。天平文化華やかかりし頃。年表を繰ってみますと「天平勝宝4年(752)東大寺大仏開眼供養」などの文字がみえます。
 「小野春道のことから、姪か何かにあたる小野小町が病気治療でこの地に来て、いろんな伝説があるのです。小町井戸って御存じでしょう?。」
 たしかに小野小町伝説についても、帯江の歴史で重要なことです。またまとめて調査しなければと思っていたところでした。
 「当時は5院12坊といいまして、この羽島(そう、島だったのです)の山の上全体に山岳寺院が建っていたそうです。」
 たしかに『帯江村史』を見ますと『成就院、文殊院、医王院、淨光院、薬師院』『重子坊、宝積坊、玉泉坊、松本坊、新坊、安楽坊、中之坊、西之坊、別当坊、南之坊、大覚坊、新蔵坊』と説明されています。当時の壮観さが絵か何かで残っていないかと聞いてみました。
 「それがここは江戸時代の二回に渡る火災で丸焼けになり、その後も記録のようなものは何も残されていないのです。でも当時の院や坊のあったところは、平らな土地で残っていて、わかるようですよ。」
 う~~ん。もったいないことです。
 『東院、西院軒を並べ、文堂金堂高くそびえ、すこぶる広壮の伽藍』(帯江村史)という壮大なお寺が、創建の8世紀から江戸時代中期、18世紀までおよそ1,000年間にわたってこの帯江の地に栄えていたのです。『日間山は、帯江村はもちろん地方文化の道場として一大光明と言うべし』(帯江村史より)。

 

お医者の仏様、薬師如来が本尊

 「ここの本尊は薬師如来なんです。薬師は医王とも言い、人の病を治すんです。備中3薬師といいまして、他に真備町と遥照山の上に、朝間薬師、夕間薬師があるそうです。」
 あれっ、「日間(ひるま)薬師」って、朝間、夕間と3つそろった名前だったのですね。「何で日間というんだろう?」という私の子供の頃からの疑問が一つ解けたような気がしました。
 そして近くの羽島などでも「薬師道」という道標を見たことがあります。あれはここへの参詣の道だったのですね。奥様の解説が続きます。
 「あの奥のところに六地蔵があるでしょう。あれだけが火事の前の古いものです。中央の大きいのは不濡(ぬれず)の地蔵といいまして、皮膚病が治ると言われています。それよりあの地蔵さん、何か変でしょう。西洋人みたいな顔立ちで。見様によっては錫杖のところが十字架みたいで、隠れキリシタンの像ではないかとも言われているんです。」  う~ん。興味は尽きません。
 再び『帯江村史』に戻りましょう。
 『薬師如来は霊験あらたかなりとて、参詣するもの日夜その跡を絶たず。ことに(略)法会には、近隣は言うに及ばず、遠く京阪四国地方より参詣するもの実に万をもって数えるほどでした。明治以降次第に減ったといえども、尚お当日は老若男女引きも切らず、昼夜立すいの余地なき有様』(帯江村史の記述については、1部現代仮名使いに直してあります(杉原))
 とにかくすごかったらしいですね。

 

突如出てきた『桂昌院』の名前

 その大伽藍が江戸の大火で全て焼失。そのあとを帯江戸川氏2代、戸川安広が今の法輪寺として再健したそうです。屋根は最近葺き替えられていますが、今でも戸川氏の梅鉢紋があちこちに見られます。今の建物はほとんどがその当時(江戸時代、1700年代)のものだそうです。
 ところがここで奥様は極めて興味深いことを話されたのです。
 「当時の将軍綱吉の御生母、桂昌院は、京都のご両親が薬師如来を信仰していたこともあり、応仁の乱で焼き払われた京都の寺々をたくさん復興されたそうなんです。その桂昌院が帰依していた隆光和尚に戸川安広公がお願いして、その弟子の龍湖和尚がこの地に来られて、この法輪寺を今のように再建なさったそうなんです。」
 たしかに帯江村史の『日間山法輪寺歴代』という系図には『中興一、龍湖。宝永3年』とあります。
 そ、それよりも、桂昌院と隆光といえば、柳沢吉保とともに将軍綱吉のもとで権勢を振るった人達です。
 私が戸川家調査のとき、二代安広の経歴を見て、「これは柳沢吉保の側近に違いない」と書きましたが、こんなところにもその裏付け情報があったのです。
 柳沢吉保とともに将軍綱吉の側近だった戸川安広は、桂昌院や隆光をも動かして、この法輪寺の再建をしたようなのです。

 

大正ロマンのサロン、法輪寺

 このお寺は、倉敷市連島の宝島寺と縁が深く、住職が兼ねたり人的交流も多かったようです。そのため宝島寺住職で書家としても名高い「寂厳」の書をはじめいくつかの書、井原の著名な画家「戸田天波」の絵などが残されているとか。
 「ここは大正から昭和の初めにかけてはサロンのようだったそうなんです。戸田天波さんが常駐され、地元の旦那衆を集めて、絵を教えていたそうなんです。」客殿を案内していただきながらのお話でした。
 う~ん。天平時代から1,000年にわたってこの地の文化の中心だった法輪寺は、大正時代に至っても新しい文化の息吹を、ここ帯江の地に吹き込み続けていたのです。

 帰途、ふと見ると、「倉敷市内の巨樹」と書かれた案内版が目に付きました。クロガネモチ(あくら)で、幹周が3mを越えているとのこと。取って返して遠州流の素敵な庭の一角にあるこの木をカメラにおさめました。かなり傷んでいるようで、往時はどんなにか立派だったのでしょう。
 帰ってこられたご住職が「大原美術館にはこの木を児島虎次郎が描いた絵があります。あの仁王門の上まで枝が広がっていたようです。このまえひっくり返りましてね。県の樹木医の方にお願いして再生したのですが、費用もばかになりませんし、この次はどうしようかと今から考えているんです。」
 おそらくここが火災にあう前からとみられる大クロガネモチ、もしかしたら「山上大伽藍法輪寺」の唯一の生き証人(証樹?)かもしれませんね。 (2002,11)

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