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特攻隊教官が、終戦直後に郷里で自爆!
ああ、戦争の犠牲者、ここにも・・

 我が家のお墓は、倉敷市西田と同早高の境にある「西田墓」にあります。その昔は「古川筋」と言って、江戸時代に六間川から早島に船が出入りしていた「古川」が埋めたてられたところです。子供の頃は「じっそう」という地名だと聞いていました。私もその漢字が「実葬地」からきているということをつい最近知ったという次第です。
 いつもお墓参りの時に決まって母から「戦争が終わったすぐあと、あそこへ飛行機が落ちたんよ。」と言って聞かされました。「特攻隊の人が戦争が終わって、生き残ってしまったと飛行機で帰って来て、故郷のこのあたりを廻りゃありゅうて、あそこへつっこんだんよ。」そこはお墓のすぐ横の田んぼの中でした。
 幼心にも強烈な印象をもつお話しでした。今回帯江や豊洲の歴史を書くにあたって、ぜひ取り上げたいとは思っていたのですが、なにしろ重いテーマですし、取り上げ方も難しい・・。正直のびのびにしていた課題でした。でも終戦60年の今年、意を決して取材する事にしたのです。
 写真は昭和40年代のお墓の空中写真で、上が南です。今は上の区画にもお墓が広げられています。この飛行機が落ちたのは、この写真の上左隅あたりと伺いました。

おれもわたしも、行ってみた

 帯江・豊洲の歴史取材を進めていますと、この事件を「おれも行ってみた。」と言われるお年寄りによく出くわしました。「黒山の人だかりで。スコップで掘ったんだけど、6mも埋っていてとても掘り出せなかった。」「それはもう肉片がこびりついて、見られたものではなかった。」「あとは長いこと、怖くて怖くてみんな近づけなかったんじゃ。お墓参りも顔をそむけたりしてな。」
 この事件が地元の人達に残した強烈な印象は、事後に育った私なども含めて、それぞれの人生観にまで影を落としてきたと言っては言い過ぎでしょうか?。この帯江・豊洲にとってとにかく大変な事件だったのです。

神社 澄(かんじゃ きよし)さんです

 この事件の主人公は、私と同じ倉敷市亀山地区の「神社 澄(かんじゃ きよし)」さんです。自爆当時22歳でした。お墓はベルタウン近くの「亀山墓」にあります。
 というわけで、今日はいきなりご遺族をお訪ねしてしまいました。故人の弟嫁になるという神社弘子さんと、地元で長いこと土木委員をされてきた小原常夫さんに説明役を果たしていただきました。
 「しうとめから聞いたんですが、落ちた時みんながうち(我が家)の子じゃ、うちの子じゃと言ってくれて、急いで行ってみたそうなんです。」
 「特攻隊の教官でしたから、教え子達がみんな死んで行ってしまって、自分だけが生き残るのに耐えられなかったんでしょうかね。」
 「はじめ、親友と一緒に帰って来て、水島に着陸して親友を下ろし、親友はそこから歩いて帰ったそうです。それで本人はまた飛行機でこの故郷上空へ来て、先祖のお墓や、小学校、そして自宅の周囲を何回も廻ってから、急上昇して田んぼへつっこんだそうなんです。」
 澄さんの写真や遺品が次々と並べられました。りりしい顔立ちです。岡山弁で「じょおとこ」(美男子)そのもの。特に私の目を引いたのは、スーツ姿の澄さんでした。こうして飛行服姿の澄さんと並べてみますと、もし戦争がなかったなら、また戦死されていなかったならば、どれほど戦後の日本の復興の為に活躍されたことかと、思わず想像してしまうほどのお姿です。写真から想像する澄さんは、文武両道に優れた人という印象でした。

最後の両親あての手紙が

 和紙の封筒に包まれたご両親宛の手紙がありました。近い特攻隊出撃を期しての両親あて別れの手紙です。切々として便箋数枚に綴られた心情は、察するにあまりあります(倉敷市史第11冊710頁)。戦前の天皇絶対の教育の中でみんながこうした心情になり、無謀な戦争にまきこまれ、多くの人命が失われていったのです。なんとも悲しくまた悔しい出来事です。
 澄さんはそのなかで、「今国家の急を思うとき、自分一巳の生命それは小さいものであります。(略)散るのはもとより覚悟であります。私は満足であります。」「幾多の戦友は尊き血を流して護国の花と散ったのに自分一人が今日まで生き残っている事が戦友に対して心苦しくてなりません。」と書き残されています。最後に両親へのお礼、おわびの言葉で締めくくられたこの手紙には、これまでの経歴が詳しく書かれていました。そのなかから抜書きします。

  • 大正13年(1924)1月8日生まれ
  • 昭和17年(1942)4月海軍入隊のため青年学校中退
  • 同年         大竹(広島県)海兵団入隊
  • 昭和18年(1943)1月27日飛行術練習生として鹿島(鹿児島県)海軍航空隊へ
  • 同          2月1日初飛行
  • 昭和19年(1944)1月27日出水海兵航空隊(操縦教員)
  • 同年         11月2日神雷部隊
  • 昭和20年(1945)4月14日鹿屋海軍航空基地、神雷特別攻撃隊(桜花隊)
  •      同年         富高(宮崎県日向市)海軍航空基地、零戦操縦員
  •      同年    7月10日小松海軍航空基地、神雷特別攻撃隊
*()内は杉原注

 どうやら神社澄さん、終戦間際には石川県の小松基地におられたようです。戦後の最後の飛行はここから行われたのでしょうか。

生家の屋根をかすめんばかりに別れの飛行をして

 古い倉敷市史第11冊696頁からは、第144章神社澄として、37頁にもわたって記事がかかれています。さきの両親あての手紙、日記、遺書をはじめ多くの資料が載っていますが、終戦直後に生家を訪ねて聞き書きした元小学校の担任大森強先生の手記から抜粋します。

 『彼が特攻隊を訓練して次々に部下を第1線に送ったのも空しく日本は遂に負けたのである。
 (昭和20年・1945)8月24日の午後4時ごろ一台の飛行機が帯江村の上空に飛んできた。低く低く帯江小学校の上空を3回程まわった誰だろう、体も見えるが誰かわからない。(略)
 神社澄君の家では飛行機が飛んできたというので皆外へ出てみた。低く低く飛んで我が家の上を屋根もすれすれに飛ぶではありませんか。機体がぐっと傾いて飛ぶ。松の木をすれすれに飛ぶ。あれは澄だ、あれは澄だ!きよしだ、きよしだ顔が見える。お母さんもどったぞ、もどったぞ。澄がもどった、みんな大喜び。どこへ降りるんだろう。色々の飛行技を見せてくれる。宙返り!ああ危ない!澄のからだが半分以上見える。しばらくして飛行機は早島町のほうへ飛んでいったかと思うと再び亀山部落の方へ帰ってくる。おおきな爆音と共に遂にこの飛行機は墜落した。豊洲村の墓地めがけて自爆したのである。何千という人々が馳せつけてみるみる中に人山になった。(略)
 機上から一包みの遺品を投げて神社澄君は自爆したのである。機体は殆ど(田んぼの中に)ぬまり込んでしまった。わずかに後ろの翼が地上にのぞいている。母の当具子さんは、走せつけて「きよし、きよし」と翼をゆすぶってよよと泣き崩れた姿もいたましい。』

 私などにも、涙無くしては読めない記事です。

 最後に「神社っていう姓は珍しいですね?」とお訪ねしました。「我が家は清音村(現総社市)の古地というところから明治時代にここへ出てきました。その前は猿掛城(真備町)の落人だったそうです。」(2005,2)

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