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山を下り水を護った流転の寺『駕竜寺』
ー岡保典さん遺稿からー

 倉敷市二日市、一王子神社より一つ西の谷に『駕竜寺』(かりゅうじ)があります。入り口の道は狭く、車がやっと通れる道を入り込んで行くのですが、国道2号線からもよく見える絶好のロケーションです。
 先の「帯江西国33観音石仏」では、三十三番結願の「酒樽観音」のあるところとしても話題になりました。

「福山合戦」から逃れて・・・

 ところがこの『駕竜寺』、元々は倉敷市の北にそびえる「福山」(302m)に栄えた山岳仏教「福山寺」(一山十二坊という)のひとつ、小池坊だというのです。福山寺は1336年(建武3)の福山合戦で全山灰燼に帰すわけですが、小池坊はそれより少し前の1312年(正和年間)頃、他の四坊とともに倉敷市五日市の山地(今の観音団地の西、上水道配水池あたり)に移ったと言われます。このとき「正智院」と名乗っているようです(帯江村史P60)。

江戸時代より前は、
五日市山地のこのあたりにあった?
昭和30年頃(帯江村史より)

さらに二日市へと移転

 さらに1598年(慶長3)二日市の北東の端、六間川沿い(元の小字松ノ木)に移っています。関が原の二年前というこの時期は、この帯江地区の干拓が本格化する寸前です。そしてその後に「駕竜寺」となったようなのです。現在の場所(二日市元の小字岩崎)に移ったのは昭和○○年のことで、3度の移転、まさに流転のお寺と言ってもいいのではないでしょうか。
 ところでこの二日市の六間川沿いに移転してきた駕竜寺について、倉敷市帯高の郷土史家岡保典さんは、長年の研究の末興味深い説を遺稿として残されています。その大要を紹介します。

なぜ山を下り、目と鼻のさきの二日市に?

 岡さんはまず次のように問題を提起します。
 「ではなぜに五日市の山上より、目と鼻の先の二日市に移動なされたのでしょうか?普通に考えるならば寺の場所は山上の風光明媚な場所で一般大衆を眼下に見下ろす処を最適としている。(五日市)山地の場所はそれに適しているように思えるが、なぜに平地の場所に変えなければならなかったのか?」
 そして、およそ次のようなことを書かれています。

  1.  二日市、五日市というように、隣り合う二つの(当時の)村には、「市」が立っていて、市には神仏が必要で、そのために正智院駕竜寺が招致された。場所も両村のちょうど中間になる。
  2.  「駕」は「馬を自由にあつかう、転じて全てのものを自由に配分する」という意味があり、また「龍・竜」は「雲を呼び雨を降らす、水に強く関係する想像動物」である。「駕竜」は「水の配分などを分け隔てなく平等に差配する」という意味になる。移転先には重要な樋門があり、正智院駕竜寺を招致して神仏の御加護により、農民にとって命より大切な利水配分を見守っていただくためだった。

樋門をシンボル化した駕竜寺の寺紋

 3番目に岡さんはさらにすすんで、右写真のような駕竜寺の寺紋について、非常に珍しいものと問題を提起され、「このマークは、両方にある水を中心で止める樋門のマークです。」と新説を出されています。
「当時の農民達がいかに水に苦労し水に悩まされ、水を要求したか・・・。自然の中で生存するための方便を、神と仏に依存して、一生懸命安定と豊穣を祈っている姿が想像できます。」

 岡さんの遺稿に沿って述べてきましたが、帯江の村社であった「一王子神社」も元はこの駕竜寺と同居していたことを考えると、干拓時代から駕竜寺の帯江地区に占める役割は大きなものがあったといえるようです。「帯江三十三観音、結願の寺」という意味が少しですが解けたようなきがしました。(2003,9)
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