帯江の歴史に戻る
元大庄屋一族の御子孫は、「倉敷市史」「早島町史」を書いておられました
ー片山新助さんを訪ねてー

小さい頃の『片山家』の記憶
 私の職場にこの帯江出身の方が他に2名おられます。私がこの「帯江の歴史」を調べ始めたことを報告したところ、その1人Nさんが遠い目をしたあと「たしか以前に山陽新聞の記者に片山新助さんという方がおられたんだ。私なんかが若い頃だけど。解説委員なんかもされたと思うんだが・・。」とポロッと話されたのです。「あの片山家のご当主だとおもうんだがなー。」
 『片山家』という名前で私が思い浮かべるのは、子どもの頃母の里の茶屋町に歩いて行く途中「ここが片山と言って昔の大地主の家なんだよ。」と母から教えられて「ふーん。大きな家だなー。」と思ったこと。  つい数年前倉敷図書館で「早島資料・大庄屋日記」という本をみつけ、それが「片山家」の古文書をもとに早島町教育委員会が出版したものだと言うことを知り、「すごいなー。早く帯江の歴史のHPを始めて、こんなものも調べて回りたいな。」と思ったことの2つです。

早島町史編集委員会の委員長さん
 この「帯江の歴史・取材記編」、まだはじまったばかりで、ようやく縄文時代前期なのですが、このような興味深い話を放っておくわけにはいきません。さっそく電話してしまいました。
 「おたくが、あの『片山家』なんですか?」まことにとんちんかんな質問だと思われたでしょうが、もっとすごいお返事が返ってきたのです。
 『ええそうです。うちの詳しいことは今出ている「早島の歴史」や「倉敷市史」にいろいろ書いていますので、それを見ていただければわかります。』といわれるのです。
 「えっ!!」よく絶句する私ですが、この時ばかりは文字通り絶句してしまいました。大慌てで先日買い求めてあった「早島の歴史1、通史編(上)」を引っ張り出しました。な、なんとそこには「早島町史編集委員会委員長片山新助」とあるではありませんか。
 す、すごいことに、帯江に歴史に非常に詳しい方がおられたのです。そしてその方のお宅がまた江戸時代の”帯江一”ともいえる大地主一族のお宅でもあったのです。これは私のHP作りにいろいろご指導をいただかなくてはなりません。希望の灯がいっぺんに光り輝いてきた思いですね。みなさん。

鶴のくちばしの位置に
 帯江地区は地図では鶴のような形をしています。その”くちばし”にあたる所が帯高の三丁割といわれる地区です。そこに1軒のいかにも元豪農とみられる屋敷があるのです。それが『片山家』です。江戸時代には高沼村と言われたところです。
 「やあ、いらっしゃい。」私よりかなり先輩に見えるその方は、やさしい眼差しを浮かべて招き入れてくれました。片山新助さんでした。
 『私も昔はねー。考古学に興味を持っていろいろ調べたことはあったんですよ。でもあの世界は専門家でないとなかなか歯が立ちませんねー。』私の趣味のHPの名刺をみながら楽しそうに話されます。元は山陽新聞記者で、解説委員室長もされたんだそうです。
 『今はもっぱら近世以降なんです。岡山の町屋の研究が専門です。でも戦災で資料が少ないのが残念ですね。』
 『でもいろいろ面白いことをやっておられますね。そこのベトコンラーメンはどこから来たんです?』おっと、いきなりこちらに話が振られてしまいました。

400町歩の大地主だったそうです
  『私ところはねー。昔阿波から児島へきて、元の姓は三宅だったそうです。その一族のうちから片山を名乗るものがが出て、江戸の元禄のころここの新田を買い取ってやってきたんですね。そして土地を増やして当時の早島領で大地主3軒のうちに入っているんです。本家と南分家は早島戸川の家来で武士になり、そのあと一族がいろんなところの庄屋や大庄屋をやっています。庄屋は西田村、高沼村、高須賀村、早島新田村などです。』
 『寛政期、早島の義倉を作る時その費用の多くを片山家が出したと言う記録もあります。そこらあたりは”早島の歴史”に相当書き込んでいますので見てください。』
 ”早島の歴史”のあちこちをめくったり指し示しながら、おだやかに話続ける片山新助さんです。何でもいちばん多いころは、片山家の土地は400町歩余(帯江村史p418)にも及んだそうです。

この地域は『綿』の大産地だった
 
 『ここいらは綿の大産地だったんですよ。』
 えっ!?。思わぬ発言が飛び出してきました。 ”早島の歴史”や”倉敷市史”をよく読めばいろいろ書いてあるようなのですが、悲しいかな私には「綿といえばインド」くらいの知識しか・・・・・・
 『干拓のあとしばらく塩分が残りますよね。それに強い作物として元禄中期から綿栽培が始まっています。早島から玉島にかけて江戸期は綿の大産地だったんです。(天保10年刊行、大蔵永常『綿圃要務』参照)
 備中綿といいましてね。文化文政のころ高須賀村の30%くらいが綿畑で(早島の歴史1、p341)、その半分くらいが片山家の土地だったらしいです。このへんで大地主ができてくるのは、この綿とイグサで儲けたからです。特に綿ですね。投機性も高く、高価な肥料を使いますから。また倉敷は綿商人の町でもあったんですよ。』
 『ここの綿は明治になって外綿が入ってきて廃れてしまいますが。私は今この備中綿を一生懸命しらべているんです。』

 この帯江の田んぼに一面に綿花が植わり、道々に白い綿を摘む乙女の姿が・・・・。なんだか私の想像を越えてしまってうまくイメージがつながりません。でも帯江の歴史を書く上でどうやら近世の”綿”栽培は欠かせない項目として浮かんできたようです。
 これはこのHPを作っていくためには、これから何回も片山新助さんをお訪ねしてお話を聞かねばならなくなってきました。片山さん、よろしくお願いします。(2001,1)

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