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高沼村検地帳発見

 倉敷市帯高地区の藤原菊雄氏宅からたくさんの古文書が出てきました。仔細に検討したところ『正徳三癸巳 高沼村検地帳』という文書があることが分かりました。和紙に筆書きで、古開、大角、北割、十丁分と、現在の帯高地域の土地の実測値が列挙してあります。総計250ページにのぼる膨大なものです。ちなみに「正徳三」は1713年です。

 高沼村干拓は苦闘の歴史で、寛文四年(1664)の最初の干拓、延宝四年(1676)~元禄六年(1693)と十七年かかった再開発、その後正徳三年(1713)になってやっと検地が行われたと言われています。そしてこの古文書こそ、その検地の様子を示す貴重な文書なのです。

 「古開
  カケアカリー
 一 - 中田 長平三拾八間五分五厘 九畝弐拾壱歩
          横平七間五分五厘   高壱石一斗六升四合
                         十二 次右衛門
  同川添二
 二 - 中田 長平八間五厘     一畝弐拾九歩
          横平七間三分五厘   高二斗三升六合
                         十二 又三郎
  東三
 三 - 中田 長平弐拾三間五分     五畝弐拾七歩
          横平七間五分五厘   高七斗八合
                         十二 同人
           ・
           ・
           ・           
               」

 これは冒頭の部分ですが、田や畑の一つごとに、最初に田の簡略名(同川添二とか)、次に田んぼの評価(上田、中田、下田など)、長×横のそれぞれの寸法、面積、高(作物の取り高)、所有者名が書かれています。

 こうして古開二百七十八筆が列挙され、上田、中田、下田、畑別に合計が出され、総計「畝合 十三町三反一畝二十九分」とまとめられています。
 次の大角も同様で弐百九拾参筆「拾五町五反四畝三分、百六拾壱石一斗七升八合」となっています。
 北割は四百壱拾九筆「拾九町九反一分、二百拾壱石六斗壱升二合」、また拾町分は一部分十五筆の資料しか残っていません。最後の所有者名の肩にある「十二、十四、六」とかの数字はそれぞれの田からの取れ高(税?)の基準を示したもので、上田は十四、中田は十二、下田は十、畑は六となっています。

 こうして高沼新田再開発(1693年)から20年後に検地が行われたわけです。収税(年貢取立て)のためとはいえ、驚くべき精密さで検地というものが行われていたものです。(2011,6)

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