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小野小町in帯江。その実像に迫る!

 
小野小町って誰?

 「う~んと、たしか最初の遣隋使じゃあなかったっけ?。」
 ええっ、それって小野妹子ですよ?・・・(607年)
 「教科書に載っていたような。しもぶくれの女の人というイメージ。」
 「十二衣(ひとえ)の人というくらいしか思い浮かばない。」
 「絶世の美女。”クレオパトラか楊貴妃か、小野小町云々・・”という世界三大美人の一人。」
 「私が以前にいた東北って、小野小町の故郷なんですよ。秋田小町ってお米の名はそこから取ったそうです。」
 「百人一首に出てくる小野小町でしょ。図柄はたしか十二衣で。後ろ向きで顔が見えなかったような?。歌はう~ん。”花の色は・・・”ちょっと思い出せません。」

   

 何をやっているのですかですって。実はこの帯江にあの小野小町が来ていたと言う伝説があるのです。
 それで今回はまず、私の周囲の人に小野小町についてどういうイメージや知識を持っているか聞いてみたのです。特に女性には百人一首でのイメージが強いようでしたが。
 と、ところが、
 「深草の少将が99夜通いつめて、100夜目に死んでしまった。そのお相手の人が小野小町でしょ。たしか六歌仙の一人で、能や古典芸能にもいっぱい出てきて、三島由紀夫も戯曲を書いていますよ。」すごい詳しい人があらわれたのです。
 その方はしばらく考えた後「たしか”花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに”ですよ。」すらすらと歌がでてきてしまいました。
 す、すごい。小野小町の再来なんでしょうか?私のその方を見る眼はいっぺんに尊敬に変わってしまいました・・・。

 

「小町トンネル」と「小町井戸」そして手彫りの自像

 現代の帯江で『小町』と言うと『小町トンネル』という時代になってしまいました。でもあのトンネルに『小町』の名をつけたおかげで、小野小町と帯江のつながりが少々人々の記憶に残ることにもなったのです。(感謝!)
 この名は平安の昔、古今和歌集に名を残した小野小町が病気になり、日間薬師(日間山法輪寺=倉敷市羽島)に籠ってその治癒を祈ったという伝説にもとずいているのです。
 羽島(向山)の山の上には、そのとき小野小町が毎日姿を写してみたという『姿見の井戸』が今に残されています。
 前回レポートした日間山法輪寺、その横の道路を車で上がります。数百m行くと左にゴルフ練習場が見えてくるのですが、同時に右側に「小町井戸公園上がり口」の道標があります。
 ここからは徒歩になりますが、2~300mでしょうか。「小町井戸公園」につきます。山の中を整備してありました。
 いちばん奥に『小町井戸』。年中水が枯れたことはない!というお話でしたが、さすがに異常少雨の今年の冬、いちおう底が見えていました。でも湿気がこもり、昨日までは水があった・・という雰囲気ではありましたけど。
 前面に『姿見の池』という窪地があります。水の多い時は「小町井戸」から湧き出した水で池になるのでしょうね。
 ああ、平安初期といいますから、今から言えば約1,200年前。世界三大美女の小野小町がここ帯江の地に病気治療で訪れ、治療したというのです。ただの伝説にしておくのにはもったいないお話ではありませんか?。もうちょっと調べてみたいと思います。
 なお、さきの法輪寺には小町が彫ったと伝えられる木彫りの像が残されています。

 

 なぜ、この帯江に小野小町が来ていた?

 『小野小町姿見の井戸』のところに解説板がありました。
 『平安の昔、嵯峨天皇のころ(808~823)小野備中守常澄(または當澄)という人がこの国の守護として備中国窪屋郡黒田村に来住しました。この常澄の娘の小町は采女(うねめ)として宮仕えをしていましたが、たまたま瘡を患い当時この日間にいた同族の小野春道という人を頼って来ました。そして日間薬師に病気平癒の願をたてました。このあいだ小町はこの井戸を鏡として自分の顔をうつしていました。満願の日、日間薬師のお告げによって小町の病気は全快しました。その後小野小町は黒田村に帰り小庵をたてて、ここの住み尼となってこの地に一生を終えたと伝えられています。』
 う~ん。けっこうもっともらしい説明ですね。実は私、この「帯江の歴史」執筆に当たって一つのスタンスを持っていまして。それは「事実かどうかにこだわらない?」ということです。伝説は伝説としてとらえようというにのです。でも、この小野小町。なにしろ世界3大美女の一人です。私もちょっとばかり「真実はどこに?」なんて考えてしまうのであります。
 まずは「窪屋郡黒田村」とは・・・ということです。う~ん。聞いたことがない・・・。

 

お隣の『清音村』に小町屋敷と小町の墓が

 でも調査をしたところ「黒田村」がわかったのです。今の清音村大字黒田。
 倉敷駅北口から真っ直ぐ北上します。酒津を経て高梁川の土手に出ます。さらに行きますと総社市へと行くのですが、途中で山陽自動車道や山陽新幹線が頭の上を横切って行くのです。ちょうどその山陽新幹線と交差したあたりに右にい入る道路があります。JR伯備線をも上にみるという交通の結節点なのですが、そこへ『小野小町墓→』という標識がありました。
 何と、ここから右(東)へと入った谷沿いの集落が『黒田村』、今の都窪郡清音村大字黒田だったのです。奥へ入るに従って、古い歴史ある土地らしく、雁木門(って言うんだと思うのですが)を構えた旧家があちこちに見られます。「大熊」などという表札も・・・。
 右の山裾に『小野小町の墓』と書かれたお堂がありました。その後ろには古い石の供養塔があります。でもたしか小野小町の墓は山の上にあるというお話しだったような・・・。

 いろいろ歩いているうちに、黒田の入り口あたりで一人のおばあさんに出会いました。何と大熊さん。ここ2~30年間、小野小町関連のマスコミの取材を一手に引き受けて来られたという方でした。(大熊脩(ひさし)さん)
 「歴史に興味があんなさる?。それならちょっと待っといてくださらんかな。」しばらくしておばあさんがお宅から持ってこられたのは、4~5個の茶封筒。『小野小町資料』とあります。
 「この奥の山(野山、又の名を小野山)の上に、小野小町の屋敷跡があります。井戸や田んぼの跡もあって昔はたしかに人が住んでいたようです。そこへこの写真のような小野小町の墓があります。私ら夫婦が若いころはいろんな方が訪ねて見えましてな。よく上まで案内したものです。私らも年とりまして、今では道も相当荒れとりましょう。」
 「下の供養塔と合わせて、今でも私達大熊(一族)がおまつりしとります。」
 「以前(昭和59年頃)に本家の蔵から小野家の系図が見つかり、”これは小野小町は本物だ”と新聞などで報道されたことがあります。」
 なるほど、当時の新聞の切抜きには、若かりしころのこのお方が系図を広げておられる写真が載っていました。
 帯江と清音(黒田)の小野小町伝説。”伝説”というには少々出来が良い様にも思えてきたのですが、読者の皆様はどう思われるでしょうか?

山の上にあるという小野小町の墓(大熊脩(ひさし)さん撮影、昭和50年代)同じく山上の小町井戸(同左)

 

小野小町の解説?

 平安前期の歌人小野小町は六歌仙の一人と言われますが、『古今和歌集』に載った歌のみしか確実な史料がないため、これまでさまざまな説が出されてきました。そして世界三大美人にまでまつり上げられたようなのです。
 まず鎌倉時代から室町時代に「能」に書かれ、晩年の老衰伝説とともに深草の少将や百夜通伝説などになります。そして江戸時代になり歌舞伎・浄瑠璃などによってさかんに小町伝説が描かれ、広い階層に多彩に小町が広がっていきました。
 こうして現在の小野小町伝承は、全国各地100箇所近くに及んでいるとのことです。
 なかではどうやら、東北出羽郡司小野良実の娘が小町という説、深草少将の話もこの東北になっていて、今はこの説がいちばん有名なようです。

 でも、全国各地にあるとはいえ、この帯江の小野小町。もうちょっと出番があってもいいような気がしました。そこで最後にちょっとエールを!
 フレー、フレー、小野小町 in 帯江 and 清音!!(2002,12)

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