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「入り江の帯に似たりとて・・・・」
--帯江小学校校歌の作者が判りました--
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「帯江の歴史」を調査するにあたって、この地区を学区とする帯江小学校をお訪ねしたのはこれで2回目です。今は塚岡博文さんという方が校長をされておいででした。第34代目だそうです。
この塚岡校長先生、歴史や地域にたくさんの興味をお持ちのようで、一昨年の就任以来帯江のことをいろいろと調べておられたのです。当然私とも意気投合してしまいまして、2回目の訪問というのにいろんな話が花盛り状態でありました。
塚岡校長が就任校とその地域の歴史や風土に寄せる関心やエネルギーは並大抵ではないようなのです。
帯江小学校のホームページはここです。
そして今回の訪問で塚岡さんから持ち出された新情報は、大変に貴重なものだったのです。なんと私たちが慣れ親しんだ「入り江の帯に似たりとて・・・」という帯江小学校校歌の作者がわかったというのです。
『私、ここへ来ましてからこの校歌の由来に興味をもちまして。でもいつ誰が作ったかわからないという。で、父兄むけの”おびえさと”という機関誌で呼びかけたんですわ。校歌について作者とかいろんな情報がありましたら教えて下さい、と。』
『そうしたらいくつか情報がありまして、古く帯江小学校にお勤めだった目黒先生という方にいろんなことをおうかがいしたんです。そうしたら、”たぶん、和気校長の作ではないか”ということになりまして!』
うーん。
『昨年の10月のことです。たまたま研究授業ということで私も外へ出ていたんですね。そうしたら校門のところへこられて写真を撮られている方がいる。何だろうとお尋ねしたら・・・。』
そうお尋ねしたら、「私の父が昔ここの校長をしておりまして、私も年になりましたから、ぜひもう一度見てみたいとやってまいりました。」何と広島の呉市から来られた方だったそうなんです。でもそれだけではなかったのです。
『本当にドラマチックでしたね。』
塚岡さんは話続けられました。
「和気の娘です。」と、90歳になるというその方が話されたそうなんです。
そして「あの校歌は父が作りました。私が生き証人です。」とも。
ああ、ついにあの”入り江の帯に似たりとて・・”の作者が判明した瞬間だったのです。塚岡さんも少し興奮気味に話し続けられます。
『いやあ、本当に運命といいますか、私がたまたま外へ出ておりまして、そこへその方が来られて校門前で写真を撮られていて・・・』
帯江小学校第17代校長の和気清男さんという方は、明治45年の3月から昭和6年の3月まで20年近く在籍されたそうですが、今も歌われている帯江小学校校歌はこの方がその間に作られたものだそうなのです。
生徒のお父さん、おじいさん、そしてひいおじいさんと |
大正から昭和の初めといいますと、日本の民主主義がまさに花開かんとしていた時期でもあるではありませんか。俗に「大正デモクラシー」と言われた時です。その時代に出来た校歌が、もう70~80年もの間歌い継がれてきたのです。
『いやー、この校歌、なかなかないんですね。古くから歌い継がれてきて。”すもう おにごと たけがりに‥‥”というフレーズなんてやっと私の世代までが実感として解るというものだと思うのですが。』
『最初は譜面も無かったようなんです。だいぶ後になって採譜されたらしいのですが。でもこの土地の人、今の生徒のおとうさん、おじいさん、いやその前から前からの人がみんな歌った歌なんですね。』
感極まったような塚岡さんの熱弁にすっかり圧倒されてしまいました。
和気校長の娘さんというその老婦人から送られてきた、昭和28年に和気校長が亡くなられたときに発行された”閑庭 和気清男”という小冊子の写しをいただきました。そのなかに次の一首がありました。
”夏山の しける木立の かすよりも なほかしましき 蝉のもろこえ”
これは帯江小学校校長当時(大正時代)の和気清男さんが詠まれたものです。真夏の校庭にあの蝉の声がジャージャーとこだまする、私たちの幼い頃の思い出の風景がそのままよみがえってくるではありませんか。短歌には素養のない私なんですが、この一首はふと気がつくと何回も何回も読み返させられていたのでした。(2001、2)
その小冊子”閑庭 和気清男”(昭和28年発行)から抜粋しておきます。
- 明治14年 岡山市生まれ
- 明治36年 師範学校卒業と同時に庄村他立純精高等小学校訓導。
- 明治41年 清音小学校校長(28歳)
- 大正初年 帯江小学校長として昭和6年まで約20年間同一校に勤務。その間尋常6年生の修学旅行として伊勢神宮参拝を企画したのは、当時県下においても例がなかった。また農業教育に重点をおいてその振興をはかった。
「今日帯江が県下否全国的に模範農村として実績をあげつつある。その幹部の人々が当時の生徒児童である事、いささか微力が報いられたと老後の今日愉快に感じている」(”思い出帖より抜粋”の注あり)
| | 在任期間 | | | | 在任期間 | |
1 | 戸川晩香 | M6~7 | | 18 | 中村正人 | S6~8 |
2 | 岸 鼎 | M7~10 | | 19 | 小野英夫 | S8~22 |
3 | 西山 澄 | M11~14 | | 20 | 森崎 勉 | S22~24 |
4 | 陶浪保太 | M11~12 | | 21 | 岡 清次 | S24~27 |
5 | 永瀬惣平 | M12~13 | | 22 | 松尾武夫 | S27~31 |
6 | 宮田祐太郎 | M13 | | 23 | 宇野哲雄 | S31~35 |
7 | 有松梅次郎 | M14~18 | | 24 | 江口浩三 | S35~41 |
8 | 赤柏林太郎 | M18~19 | | 25 | 小野正典 | S41~47 |
9 | 目黒寿太郎 | M19~21 | | 26 | 冨気弘之 | S47~53 |
10 | 安田右平 | M21~22 | | 27 | 林 繁 | S53~56 |
11 | 水川槍弥 | M23~31 | | 28 | 物部省三 | S56~60 |
12 | 深見獅太郎 | M32~34 | | 29 | 志田浩二 | S60~62 |
13 | 相賀伸治 | M34~35 | | 30 | 若山満郎 | S62~H1 |
14 | 平井喜多次 | M35~38 | | 31 | 永瀬 修 | H1~4 |
15 | 竹村鉄之助 | M38~43 | | 32 | 大野幸男 | H4~6 |
16 | 汲田信治 | M43~45 | | 33 | 宗澤正幸 | H6~11 |
17 | 和気清男 | M45~S6 | | 34 | 塚岡博文 | H11~ |
設立当時の帯江(当時は浄光)小学校。明治7年設立