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もう一つの洪水絵図
~大供村石井氏の謎を追って~

 「帯高の歴史」編纂もいよいよ取材が本番に入ってきました。ところが今回編集委員の一人、Nさんが「嘉永洪水絵図」を手に入れてこられたのです。ところがこの絵図、これまでに発見されている3図(片山家、尾崎家、亀山家=いずれも倉敷市帯江地区)と、まったく構図も何も違った、新種の絵図なのです。どちらも同じ嘉永3年の高梁川の洪水を描いたものです。

備前側から描いた洪水の様子

 今回見つかった新しい嘉永洪水絵図は、110cm四方の大きなもので、東を手前に書いてあります。またこれまでの3図と違って、水が青色ではなく茶色のにごり水として表現されています。洪水の東端、箕島と妹尾の境に、多くの旗指物が並び、見物人がずらりと並ぶ様子が描かれています。
 また、周囲に解説文があり、
  「妹尾展望下・・・」
  「嘉永三年六月三日夜、中島水さらに・・・、希代の珍景たる・・・」
  「倉鋪(倉敷)本町は土地高くして・・・」
などと見えます。

そして、右下には「大供村 石井氏」とあるのです。

 どうやらこの大洪水を、備前の大供村(現在の岡山市大供(だいく)近辺)の石井氏が妹尾の境まで見に行って、その様子を描かせたものではないかと思われるのです。いわゆる、備前から見た嘉永洪水絵図になっているのです。で、「大供村 石井氏」とは??

大供村石井氏の謎を追って

 これは「大供村石井氏」とはどんな人だろう?なんとかつきとめなくては・・・。というわけで、県立図書館に行ったり、岡山市立図書館に問い合わせたりしてみました。  でも、どうやら江戸末期の大供村のことを書いた文献などは無いらしく、結局わからないという結論でした。  友人の吉備武彦氏は「大供村の庄屋は小山家と聞いているしなー。石井氏って何だろう??」。  しばらく謎のままの状態が続きました。

住宅地図で発見

 で、「まあ、あるかどうかわからないけど、住宅地図でもあたってみるか?」ということで、大供近辺の住宅地図で、子孫らしきお宅を探すという作業までやってみました。
 ところが、「あれっ、この家は??」どうやら敷地の格段に広い石井家が載っているのです。「近くだし、行ってみよう・・・」お昼の散歩で出かけました。ところが・・。
 何と、そこは工事中で、家の影も形も無いのです。(その後、2軒のラーメン屋さんになりました)
 「ここらは道路建設の区画整理にひっかかって、石井さんも今どこかへ仮住まいだと思いますよ。行き先はわかりませんね。」とご近所の方のひとこと。またまた暗礁か??
 幸い電話帳に載っていました。かけて見ると鳴ります。どうやら電話は移動された様子です。ラッキーです。
 電話の向こうでおばあさん「そういえば、おばあさん(姑さん)が『うちは昔は大供村の庄屋をしよったんよ』ということを、よく言っておられましたなー。」
 その後いろいろとお聞きしたのですが、この絵図については心当たりがないということでした。もしこの絵図がこの石井家の先祖のものだったとしても、江戸期のことです。伝承が失われたのかもしれませんね。(2010,2)

 今回の調査、すべてがラッキーでした。もしもう数年後だったら、おそらく石井さんを私が見つけるのは無理だったでのではないかと思います。郷土史調査も運に左右される部分がたくさんあると、いつもの結論に納得の今回でした。

PS:この絵図には、高梁川の決壊箇所の復旧工事の様子が詳しく描かれた絵図が付属していました。その件はまた続報します。

PS2:この絵図を岡山大学文学部倉地克直教授に見てもらいました。「顔料が植物性で青色が茶色に変色していたりするが、中庄・庄地区などこれまでに知られたものより広範囲に描かれ、被災状況がよくわかる。同じ干拓地の岡山市南部一帯の防水の参考にしようと描かれた物だろう。別図は岡山藩領からも参加した復旧工事の様子がよくわかる。大水害の様子がより多面的に見えるようになった。」など、非常に貴重な資料だと話されていました。

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