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大坂商船『楠見丸』のこと

 「あそこは今は私の持ち山になっとります。時々下刈りをしたりしとりますが、ほかにも掃除をしてくれたりする方もあるようです。昔船が沈んでそれを奉ったということくらいはきいとるんですが。」こういわれるのは、倉敷市亀山のNさん。
 実は倉敷市亀山地区の西南、有城との境あたりにひとつの祠がありまして、今日はそのお話です。新開発の「ベルタウン」から東を望むコンクリートの崖の下にあります。そっと下りて行きました。今は小さな祠ですが、以前には社殿があったと思われる基礎の跡が残っています。
 そこから下へ下りきった(今は下りる道も普通では通れないようですけど)あたりには立派な石の鳥居のあとがあります。「昔洪水で大きな木が流れてきて、あの鳥居が壊れたそうです。」証言の通り2本の石の柱が残っているのみです。

 

 この社は『楠見大明神』というそうで、「帯江村史」には次のように書かれています。
 「開墾前即ち370年前と言うから天文のころと思われる。当時大阪の商船楠見丸がこの付近で大風に遭い沈没した。開墾後でも帆柱が見えていたという。村人がこれを掘り上げて遭難者を難水様、船を掘り出したのを掘元様として祀ったと伝えられている。毎年春秋に祭りが行われている。」

 帯江村史の書かれたのは1956年(昭和31)ですから、それから370年前といいますと1580年代です。また『天文』は、1532~1554年です。いずれにしても室町時代末期から戦国時代にかけての時期、この帯江の地で(海で)大きな海難事故があったようなのです。

 興味を持って調べて見ましたが、現存する資料からはこれ以上の材料はありませんでした。右の写真は、祠の中にあった木の札です。昭和初期に社を建設したときのものです。ここでは1540年となっていますね。
う~ん。大阪商船『楠見丸』・・・。インターネット上にも資料はありません。  現地に立つと、多くの乗組員が難破した船から、泳いでこの山(島)に向かっている姿が目に浮かぶようでもありました。(2003,1)

 後日談1:でも現地では「そこはちょうど瀬戸大橋取り付け道路の場所にあたり、先年の工事中に帆柱が出たそうな?」という話しが伝わっていました??。当時の工事担当者の方にもおうかがいしましたが、とうとう証明はできませんでしたが?。

 後日談2:この遭難船の伝説については、もう少し沖の茶屋町地区ではあまたあり、「この筋は昔沈没船が出たところだから云々・・・」という恐ろしげなお話しがあちこちで伝わっていると聞かされたりもしました。

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