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帯江小学校に約30年勤務した先生のこと
-ダンスにピアノに、ハイカラ先生は今も健在でした-

 前回の「帯江小学校校歌の作者」の記事のなかに、「目黒先生」という名が出てきます。塚岡現帯江小校長が赴任してこられてまもなく、古い先輩にいろんなことをお聞きしたというのでした。
 う、待てよ!目黒先生・・・??。何だか私の記憶のひだに!たしか○十年前、私が帯江小学校に入学したとき、一年担任していただいた眼鏡の先生がそう言われなかったっけ?。少しづつ記憶がよみがえってきまして、ピアノを弾いたりなかなかハイカラな先生だったようなことも思い出されてきました。私の母なども即座に思い出して「そうそう、あのロイドメガネをかけた先生」と言いました。こ、これはお訪ねしないといけません。

まずは和気校長のことから
 今年の春は気候が少し不順で、梅が3月中旬にやっと咲いたかと思うと、我が家の周りで”ふきのとう”や”つくし”がいっぺんに顔を出しました。寒い日が続いたあと、急に暖かくなったせいでしょう。桜もまもなくのようで、4月中旬の陽気と言われた春分の日、なつかしの目黒杉夫先生を、倉敷市生坂のご自宅にお訪ねしました。
 「やあ、いらっしゃい。」93歳という先生は、そろそろとですが歩いて私を座敷に案内なさり、私のいろんな問いにも、しっかりとした受け答えで多くの思い出を語って下さいました。
 「私が帯江小学校に赴任したのは昭和4年です。そのときの校長が和気清男先生だったんです。当時は和気先生が校歌の作者とは知らなかったのですが、つい先日先生の娘さんという方が広島県の呉から電話をしてこられまして、そういうお話をうかがいました。」

先生が「ハイカラ」になった秘密とは
 「2年間一緒だったのですが、温厚ないい校長でしたなー。その奥さんがまたいい奥さんで、帯江幼稚園の先生でした。当時(昭和の初め)村で幼稚園のあるところは、このへんでは帯江くらいでしたけれどもね。」
 「実は私、帯江小学校へ来て初めて低学年を担任したんです。そうしたら本当に何もかもやらないといけないんですね。運動会があると踊りも教えないといけない。そのとき、和気校長の奥さんが、”男でもそのくらい教えられないとだめです”とおっしゃって、私、手ほどきしてもらったんですわ。これは男でも、何でもやらなければいけないと感じて、踊りも始めたんです。」
 『何だか先生のピアノが印象に残っているんですが?』とこれは私。
 「そうです。低学年だとピアノもやらないとということでやったんです。当時の帯江小には珍しくピアノもありましてね。」

NHKに出演したことや、踊りを教えて歩いたこと
 「それで子供に歌を教えましてね。女学校(今の青陵高校)へ引率していって歌ったり。そうそう、あれは戦後すぐのことでしたか、岡さんという校長に勧められて山の上の放送局(NHK)へ子供たちを連れていって、私がピアノを弾いて子供たちに歌わして出たこともあるんです。見事予選を合格したんですよ。」
 え、そうすると、私がいたころかなー。うーん???。
 「東京の島田舞踊というところが全国の児童舞踊を教えて回っていたんです。私はそれの助手のようなことをして、県下一円を教えて回っていたんですね。いつでしたか、倉敷の小中高生を集めて倉敷球場で文化祭のようなものをしたとき、そう、2,000人はいたでしょうね。その踊りを教えたのも思い出に残っています。いちおう島田舞踊の教師免状も持っていたんです。」
 おー、すごい。マスゲームの先生だったんですね。

 

30年というと、親子2代の教え子も
 「ええ、そうです。私住まいはこの菅生学区でしたが、帯江小に昭和4年から33年まで30年近くお世話になりましたから、どの家がどっちに向いていて、どの道をどう行ったらいいかとか、ほとんどわかっておりました。帯江は第2の故郷なんです。
 ですから、2代にわたって教えた人たちも少なくないと思います。」
 「そうそう戦後すぐでしたか、大地震のとき、教え子だった人の家が1軒だけつぶれてしまいまして、大きな家が屋根だけになっていたのは今でもよく覚えています。地震というものは本当に怖いとおもいましたねー。」
 「帯江村は裕福で財政状態も良かったんです。ですから倉敷市へ合併するときも、村内の道路をみんな整備してから合併したという話しも残っています。」

 本当に93歳におなりとは思えない目黒杉夫先生のしっかりとした語り口が続きます。
 こうしてお話を聞いていますと、私もまだまだこれから○十年はがんばれるだろうと、勇気が沸いてきたインタビューでした。本当にありがとうございました。(2001,2)

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