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明治維新の切腹事件と長瀬家のこと

 大阪のWさんからメールをいただきました。「帯江の歴史取材記編、面白く読ませていただきました。私の母は(旧)帯江村大字二日市の出身で旧姓を長瀬といいます。(略)母の存命中は毎年お墓参りに行っておりました。(略)江戸末期の先祖が使いで江戸に行きましたが役目を果たせず切腹したという話しも・・・」
 長瀬家といえば旧二日市村(倉敷市二日市)の庄屋で、帯江村史にも『表長瀬家』の系図が登場し「駕龍寺転移の大世話人であり種々寄付行為あり」(420頁)などと説明されています。そのうえに切腹事件とは興味津々ではありませんか。

 

帯江戸川の陣屋町、二日市

 県道倉敷茶屋町線「西帯江」のバス停を中心として、その南北に家並みが密集しています。これが二日市で名の通り昔は2の日に市が立ったのでしょう。
 江戸時代は帯江戸川家の陣屋町としての役割を果たしたほか、五日市から有城、天城へ抜ける街道と倉敷から茶屋町、また早島への街道が交差した交通の要路でもありました。右の写真は当地天理教会庭にあった道しるべです。
 この二日市に住む郷土史に詳しい長瀬一彦さんにお話しをうかがいました。
 「二日市の長瀬は大きくは二家あって、私とこは侍として戸川家に仕えた家の子孫です。庄屋だった表長瀬家の建物は、今は天理教の教会の一部になっています。あ、切腹したのは長瀬源四郎で、お墓は二日市墓にあります。」
 この長瀬一彦さん、平成の初めに「帯江西国33観音」を訪ね歩き、写真帖にして公民館やお寺さんなどに納めた、私にとっては大先輩の方なのです。

 

 表長瀬家の建物は、天理教会所の一部として現存

 早速西帯江バス停から北へ入ったところにある天理教会をのぞいてみました。大きな教会所とその北側の別棟に分かれています。うかがったところ、教会所の建物は40年ばかり前に建てられたものだそうで、北側の建物が江戸時代からのものらしいということでした。なるほど大きな木を使い、いかにもという感じがしました。
 帯江村史ではおよそ「島津候が用材を木曽で買い求めて大坂に運んだが、気に入らず破談にした。それを帯江の平松氏が買い取り、帯江に平松、松ノ木、長瀬の三家を建築した。(略)松ノ木、平松はその後移築されたが、表長瀬のは堅固で解体困難なため立ち売りされ、今も見ることができる」(420頁:一部意訳=杉原)とあります。それがこの建物なのでしょう。う~ん。すごいです。
 さらに帯江村史を詳しく見ますと、帯江戸川家の家臣名簿(村史編集委員会で資料をもとに作成)に、長瀬栄次郎、同素六郎、同源四郎などの名がみえます。長瀬家はやはり帯江戸川家家臣でも重要な役割を果たしたようです。

天理教教会の北棟。元表長瀬家の建物だった外側の土塀。内側に北棟の一部が見える

 

明治維新で切腹した3人とそのお墓のこと

 また帯江村史には明治維新の時に切腹した3人のことが書かれています。
 明治維新で帯江戸川家8代安愛が領地没収追放になったことについて、その家名復活を願って地元からたびたび嘆願書が出されています(帯江村史423~430頁)。その時朝廷派の岡山池田藩に嘆願に行ったのが長瀬源四郎と小山新兵衛の2人の家臣です。2人はそれが聞き入れられなかったために帰路板倉のあたりで割腹自殺をしてしまいます(426頁)。
 もう一人は家臣であり、8代戸川安愛が二日市に設けた学問所の教官であった植田亮哉です。植田亮哉は明治になって追放された旧主君戸川安愛を帯江に迎えましたが、本人が赤貧洗うが如きであったため十分な世話が出来ないことで責任を感じて、ついに切腹してしまうのです。
 前出の長瀬一彦さんの記憶と、法輪寺の奥様のご案内とで、法輪寺から東へ山を少し上がり、妙忍寺へと下りる道の両側にある広い墓地を、数日歩き回りました。やっとのことで植田亮哉、小山新兵衛の墓は見つかりましたが、長瀬源四郎の墓はついにわかりませんでした。
 法輪寺から東へ少し行ったところに、法輪寺中興龍湖を初めとした代々住職のお墓が並んでいます。そのすぐ左手の叢の中に小山家の墓があり、小山新兵衛の墓はすぐみつかりました。また帯江村史では「法輪寺仁王門前」と記された植田亮哉の墓(碑)はそれと違って、小山家墓の左手上段に他家のお墓に混じっているのが見つかりました。まるい石碑の周囲に「友人嶋田泰夫」という人の追悼文がびっしりと書き込まれています。
 それからずっと東へすすみ、妙忍寺へと下りるあたりにあるのが、大庄屋平松家(平木家)の数々のお墓群です。そしてその周囲を取り巻くように配置されている長瀬一族のお墓たち。いろいろと探しまわりましたが、私の目には「長瀬源四郎」と読めるものはついに見つかりませんでした。
 切腹の是非はともかく、当時としては「義士、義人、尽忠の士」(いずれも帯江村史)だったわけで、明治維新と言う歴史の大転換期にこのような事件があったことを、ぜひ地元の人たちの記憶の一こまに残していきたいものだと、この一文になりました。(2003,3)

植田亮哉の墓(碑)小山新兵衛の墓
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