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干拓地の水事情(岡メモから)

 帯江の歴史を取材するうち、帯高にも歴史に詳しい方がおられるという情報が入ってきたのです。その方は出版に備えていろんなことを原稿用紙に書き溜めておられるとか。しかし残念ながら昨年夏亡くなられたといわれるのです。
 その方は「岡 保典」さんといわれました。一周忌が過ぎたある日、帯高の西部、南古開というとこにお宅をおたずねして,資料を見せていただきました。大量の原稿です。ご遺族のかたの了解を得まして、その一部をこのHPに取りこませていただくことにしました。
 今回はその第1回目で、帯江地区の多くの場所が干拓地ゆえに困難を極めた飲料水確保の生々しいリポートです。(小見出しは杉原による)(2001,8)


帯高開発当時の住民の飲料水について (岡 保典)

 人間がその場所に新しく定着して、そこで生活を営む場合に、まず雨水をしのぐ住居と、生命を存続するための食料と飲料水と、その身を保護するための衣料すなわち着るものは絶対不可欠のもので、この衣と食と住がその地に求められなければ生活は営めないであろう。

吉備の穴海というところ

 そこでこの帯高の地なるところは、昔は瀬戸の穴海と呼ばれ、南側を児島と言う小島によってさえぎられ、一方高梁川、旭川、吉井川の三大河川の流出口であった。この3大河川の流出する土砂が児島によってせき止められて、長い時間の間に浅い海となっていた穴海である。その場所を戦国の世の終末ともなると、土地の支配者がその地先を早い者勝ちのようにして開発を始めて、その地より取り入れられる「米」という食料を増産して、住民(農民)達が大勢定着してきた土地である。
 こうして17世紀初頭より始まり20世紀中頃までに大きな穴海が開発されて多くの農地が出来たものである。
 この新しく開発された農地はその昔は海の中で、潮の干満によって満潮のときには海となっていた所なので、そこで飲料水を求めることは不可能に近い状態であった。
 そこに井戸を掘っても潮水が出て真水は汲み取れない。開拓農民はどこからか飲料水を求めなくては生活はだめなのである。
 現在は水道行政がよくなったからどこまでも飲料水は送られているが、17世紀の時代にはそのような文化は進んでいないから、当然どこからかその飲料水を求めていたのである。

以前は山すそに住んでいた農村民

  この帯江地区が開発されたのは17世紀から18世紀にかけてなされているが、それより古くから住んでいる人たちは農業にとっては非常に不便ではあるが、集団的集落を作って、山の下に居を構えて、農作業は不便を承知の上で通い作という取っている。たとえば児島の北辺にあたる粒江、藤戸、郷内、彦崎、迫川、八浜等すべて山の裾に集落を構えて飲料水を山の冷水の湧く所に井戸を掘って共用となして生活をしていたのである。農地より離れていても仕方なく通い作として農作物は人車によって運んで山際の住宅まで持ちこみ処理していたのである。このような集落はすべて17世 紀以前の姿である。
 児島の穴海が開発され出すとそれらの姿は新しい形の、自分の営む農地のそばに住居を構えて、農作業労働力の省力化をはかったのである。しかしそれがために必需品となる飲料水については非常に難渋したのである。

羽島、二日市のこと

 帯江地内も羽島また二日市等は大きな山はないが、羽島また向山、日間山という山の裾を住居としていて、このような山裾には自然湧流の所に井戸を掘れば十分に生活水は補えたのです。しかし加須山も山裾を離れた農地の中に家を建てた人たちは当然飲料水はなくて、山裾の井戸より水を運んで生活を潤おしていた。その井戸はかなりの戸数の人たちが利用していたから、当然かなりの量の湧き水のある井戸でなければならなかった。またそのような井戸は管理もその人たち大勢によってなされていたのである。

亀山の水汲み山の井戸

 亀山あたりの住民は何処の井戸かといえば、俗に「水汲み山」と呼ばれる山裾に大きな井戸が2つあった。今の渇目山の南端の部落の墓場のある登り口にある井戸である。この井戸は現今もこの墓に参る人たちの水汲み場となっている。
 当時(昭和10年頃)にはこの井戸には4本柱の2間角ぐらいの立屋瓦葺の雨よけ小屋があった。この場所より南へ向けて道があり30メートル程のところに丸井戸があり、多くの人は手前の井戸より水質が良くて美味であったので、奥の井戸の水を利用していた。この井戸にも二本柱の瓦屋根の覆いがあってつるべ式になっていた。もちろん手前の井戸もつるべ式になっていた。
 私の家は帯高の南古開であるが帯高も南北両古開の人たちはほとんどこの亀山の井戸水を生活用水にしていたように思います。

(右の写真は、この井戸の現在の状況)

水汲みは子供の仕事でした

 私も小学校の上級の部(五、六年生)ともなると学校から帰ると大人用自転車の後ろの荷スケの両側にバケツをつけて、この水汲山の井戸まで水取りに通ったことを覚えております。
 自転車の後ろにつけたバケツに木の蓋をして舗装もされていないので路面は悪く帰ってみるとバケツの中は半分ほどの水しかなくて、水瓶にうつしてみて水が少ない場合は二回も三回も山の井戸まで水運びをして家族の生活用水を潤おしていました。
 水運びは当然子供の仕事ですが、需要に満たない時には父親が運んでおりました。現在と違って川の水を住民はとても大切にしておりましたから、水質も大変きれいな水であった。大人も子供も川に小便をするというようなことは絶対に禁じられていて、もし小さい子供が川に小便等しているとすごく怒られたものです。

船でも売り歩かれた飲料水

 帯高も(東部の)大角あたりになると今の六間川と倉敷川が合流する地点を「天城茶屋ばな」と呼んでいますが、天城広田神社の東北の山はなに大きな共用井戸があり、この場所より飲料水を船に積んで茶屋町一帯を水を売って歩く商人がいた。この水を住民たちは買って飲料水としていたのです。今の水道と違って多量の水は運べないので割高につくが、住民の人たちはその水を買って大切に使用して生活を支えていたのです。
 酒津より水道が導かれたのは昭和の初期です。帯高全域に水道が取りこまれたのは第2次大戦後の昭和22年頃のように思います。最初の水道管は鉄管ではなくて、エタニットパイプと呼ばれるスレート管であったので、私の家の裏にあった隣の家の納屋の火災のときに、水道の消火栓を使用したところ、水道本管が破れて消火に役立つことも無く全焼となったこともありました。それ以後ビニール管が作り出されて、今はビニールの水道管となっている。
 興除、藤田あたりでは時代も変わって住宅の建て家が草葺から瓦となって、入植した人たちもすぐ瓦屋根の住まいを建てるようになったので、この瓦屋根の天水(雨水)大きな「水漉しガメ」を作ってこれをもって飲料水としていた。今から考えれば不衛生極まりない生活であった。だから伝染病などが流行すると一たまりも無くして多くの病人と病死者を出したのである。
 また病人になっても医者もおらなくて何の手立ても施されず、子供たちも大勢いてもまた大人にしても若いときに死を迎えた人たちが大勢いたのが、昭和以前の農村の生活であった。
 昭和時代になって農民の文化は大きく変わってくるのである。いやその始まりはもっと早く明治維新からであるが、なかなかに農民までが文化の影響を受けるのは時間がかかって、昭和時代、それも第2次大戦以後に顕著になったのである。(岡 保典)

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