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加須山干拓の立役者、「尾崎家」のこと

 帯江の大部分は江戸時代以降に吉備の穴海を埋め立てて出来た干拓地だ、ということは以前にも触れました。
 そして、加須山、亀山・・・とそれぞれの干拓地には、その干拓(開墾)に活躍した旧家があるのです。
 今日はそのうちで、加須山干拓を成し遂げ、庄屋として江戸時代を経た「尾崎家」を訪ねてみました。

 

帯江小学校のすぐ隣に
 倉敷市生坂から出てきて二日市に落ち着き、願って加須山干拓を成し遂げた「尾崎家」はその倉敷市加須山の一画、帯江小学校のすぐ隣に広い屋敷がありました。
 塀だけでも何米あるのでしょうか?。一辺が100mはありそうです。

 案内を請うと、この家の娘さんで、この屋敷に住んで管理しておられるという竹内祥子さんが、やさしい目で迎えてくれました。
 「今は兄弟みんな出てしまいまして、幸い主人が水島の企業だったものですから、私がここへ来て住んでいるんですよ。」とおっしゃいます。
 「祖父の生三(せいぞう)は、倉敷商業銀行を設立したんですけれども、それが今の中国銀行になりましたでしょ。それで岡山に居を移していたんですよ。今のNHKがあるあたり(岡山市丸の内)に長いこと住んでいたんです。」
 う~む。私が今、毎日通っている職場のあたりに戦前は住んでおられたようです。今日おたずねしたのも何かの縁かもしれないですね。

 「戦災で丸焼けになりましてこちら(加須山)に帰ってきたんです。祖母は倉敷の井上家から来ています。」
 井上家といえば、倉敷最古の町屋として今整備が始まっている家です。当時の旧家はいろんな縁でつながっていたようです。
 「昔は家と家の結婚でしょ。結婚まで顔も見なかったなんて不思議な話もあったようですね。」
 かわいい「倉敷はりこ、干支の羊」を前において話される竹内祥子さん、なかなか愉快なお話しで、私とも話しが合ってしまいました。

 

赤穂の武家屋敷を移築
 「この家は明治で祖父生三の時代に、赤穂の武家屋敷を解体移築したものだそうです。以前に建築家の方に見てもらったところ、”この瓦は姫路で焼いたものですね”と言われたことがあります。」
 むむぅ。そうすると、もしかしたら赤穂浪士の誰かが昔住んでいた屋敷かもしれませんね?。ミーハーな私などは、すぐ話しを飛躍させてしまいがちですが、お酒で毎日磨かれていたというこの家の柱や天井などは、黒光りしていかにも武家屋敷の名残のように見えてくるものでした。
 外へ出てみると、庭にはでっかいあくら(クロガネモチ)の木があります。地上3mくらいのところから枝分かれし、見事な姿をほこっています。
 「ここへ居を定めて以来の木だそうです。300年くらい経っているようです。」

 『帯江村史』にはこの尾崎家の家系図も載っています。清和源氏で里見姓として新田義貞に属していたが、福山合戦で敗れて今の倉敷市生坂の尾崎という地区に移り尾崎姓を名乗った。その後二日市に出てきたていたというのです。

 

1618年から始まった加須山干拓
 同じく『帯江村史』には現在の加須山が海から陸になった時の事が書かれています。(137頁)
1618年(元和4年) 古新田開発
1624年(寛永元年) 当新田開発
1626年(同 3年) 小瀬戸開発
1650年(慶安3年) 検地

 そして尾崎家の文書からの転載としておよそつぎのように書かれています。
 『先祖の庄左衛門(盛則)、伝右衛門(重宗)兄弟が二日市に住んでいたが、笹沖新田の様子を見て、願って加須山村を開発した。1624年に居屋敷として加須山を拝領、切りひらいて屋敷にした。』(要約)
 この一帯が陸地化しておよそ380年ほど経つようですね。

 再び竹内祥子さんです。「父は東京の大学をでてからあちらで就職をしていたのですが、なぜか土地への執着はすごかったですね。”これはご先祖様からいただいたものだから、自分の都合でどうこう出来るものではない”と言って、今の倉敷ハイツのところの持ち山を売るのにも長いこと反対していたんですよ。それで私も今のこの屋敷をなんとか守っていかなくてはとがんばっているんです・・・。」

 

今も残る『加須山』の森
 「これが『加須山』なんです。昔はもっと大きくて、海に浮かぶ島だったそうです。帯江小学校も山を切り崩して作ったと聞いています。」
 尾崎家の裏にあり帯江小学校の横の小山を指して話されます。
 そういえば、私が帯江小学校に通っていたころはまだ中に入れて、入り口のあたりに貝塚があったのを覚えています。今の帯江小学校とこの尾崎家を合わせたあたりが昔は山(島)だったとすると、縄文の昔に人が住んで貝塚を作ったということもうなずける話です。
 加須山には今も見上げるに充分な大楠や諸木が生い茂り、帯江小学校の児童の目を楽しませています。まさに大自然林の趣です。いつまでもこの緑が続いて、夏には鳴り止まぬセミの声で自然の素晴らしさを誇ってほしいものだと思いながらの尾崎家訪問でした。(2003,1)

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