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六間川の水清く 清きはわれらの心なり

 帯江小学校校歌の一節です。今回は帯江地区の東北を流れ、帯高と亀山の間を流れ、さらに倉敷川へと合流するこの六間川について語りましょう。

心のふるさと六間川

 今回の調査で私はこの六間川の流域を歩き回りました。所々で「これって六間川ですよね?。」と土地のお年よりの方などに確認をして歩いたのですが、どの方も「そうだよ。」と私の顔をあらためて見て、誇るような顔をなさるのです。これはちょっと不思議でした。これはこの帯江、豊洲の地域のみならず、遠く庄や庭瀬に行っても同様でした。
 ああ六間川って、地元のとくにお年よりの人たちには、特別の存在なんだ!と私もあらためて思ったのです。本当に「心のふるさと六間川」なんです。

南と東、2つの六間川があった

 では、六間川って何なんでしょうか。どっからどこまでがそうなんでしょうね。
 地図を見ますと、始まりはどうやら倉敷北中学校のすぐ西、倉敷市中庄にあるようです。そこから東に流れ、中庄、庄、撫川などを経由して、ついには足守川へと合流する「東六間川」。もうひとつは南東に流れて中庄団地横から、帯江・豊洲両地区の境を流れ、南西へと折れて南下、ついには倉敷川に合流する「南六間川」。この2つがあるようなんです。
 それでは、南六間川紀行を始めましょう。

南六間川のはじまり(北中のすぐ西)中庄団地横を流れる南六間川ここにあったはず?八軒樋

無くなった「八軒樋」

 倉敷市立北中学校のすぐ西、今では横に県道の工事が行われていますが、そこから南へ流れる六間川。山陽本線と旧国道2号線を越えて(潜って)、県営中庄団地の横をひたすら南下します。徐々に北に延びている「県道倉敷・生坂 二日線」(中環状道路)に沿って・・・あれっ!いつのまにか左から右に流れが変わっている??
 ということで、左に「よしみつ小児科」が見えてきました。あれれっ!!
 私が子供のころは、たしかこのあたりに大きな水門(「八軒樋」という名でした)があったはずなのです。な、ない!!
 「あれは昭和30年代でしたか。黒崎のあたりに溜まる水を抜くために出来たんですが、今度の道路工事でなくなりましたよ。」ご近所の人の証言です。なんと「八軒樋」は道路の真中にかかってなくなっていました!!。

二日市の六間川2号線下の六間川現在の十六水門

風呂屋浜のこと

 六間川はそこから東南に流れを変えます。帯江地区と豊洲地区の境界を流れるのはこれからです。元の駕竜寺の横や二日市地区の古い家並の横を流れ、県道「倉敷・妹尾線」が川の半分をオーバーハングしている地域を通過。国道2号線を越えます。
 その次に遭遇するのが「一六水門」。江戸時代は「二の水門」と言われていたそうですが、この川の水を「西田」「早島」地区に送るのに重要な役割を担っている水門です(おっと、これは我が家のすぐ横なんです!)。明治や大正時代まではこのあたりまで海からの船が行き来し、米の積み出しも行われていたそうです。つい先年水門の改修が行われ、立派な石の水門は建て代わっています。
 それからしばらく行きますと、流れは右に急角度でカーブします。最初に六間川が掘られたころ(江戸時代)はここで六間川は海に流入していたそうです。ここには「風呂屋橋」という橋がありまして、亀山地区や早高地区の河川敷運動公園が広がっています。江戸時代の一時期ここから先が海の時代、浅海海面の干拓が行われていました(高沼干拓=帯高、早高)。その時に干拓労働者むけの風呂屋があったところで、「風呂屋浜」という地名で残っているそうなんです。

風呂屋橋から六間川河川敷公園(亀山、早高)

江戸時代そのままの『倉水門』

 南西に流れを変えた六間川は、県道倉敷茶屋町線を抜けていきます。その先にあるのが「倉水門」です。江戸時代そのままの風情を残すこの水門。ここから下流域を眺めてみますと、いかにも先は海だった・・という感じにとらわれるではありませんか。
 帯江地区の南東の端、帯高地区をずっと迂回して、いつのまにか「備中」から「備前」に流れて、倉敷川へと合流していく「六間川」ではありました。
 干拓当時、備前備中の領土争いが激しく、帯高の南西端には写真下のような標識が残されています。これは「児島」が備前領であったため、干拓のたびに両者の間にあるその陸地(旧水面)がどちらに属するか争われたためです。結局茶屋町までが備中で、興除地区以降が備前になったようですが。

江戸時代の名残りを残す倉水門倉水門から下流を望む備前備中境界石

最初は岡山藩が掘った「六間川」

 そもそも六間川は、倉敷市東部(今の中庄地区など)の沢所(さわしょ)と呼ばれた低湿地帯の排水のため作られた人工の川です。帯江や豊洲地区の干拓のため、低地のこのあたりにいつも水が溜まり始めたわけです。江戸時代になってこの地を領有した岡山藩はこの排水のため、1663年(寛文3)に現在の倉敷北中学校横から南へ向け福島、二日市、亀山を経て海へと至る約6.5キロの南六間川(当時は亀山、西田地区の先が海だった)と、東にむけ下庄、大内田を経て、撫川の関戸で足守川へ流入する約5キロの東六間川を掘りました。もちろん幅が六間(約10m)あったことがその名前の由来です。
 現在では生坂の山からの水や一帯の余水のほか、酒津からくる「八ヶ郷用水」や総社市湛井からくる「十二ヶ郷用水」の水なども両六間川に流入し、倉敷川、足守川に排水されています。(2003,8)

大内田高橋からの東六間川関戸近くの東六間川排水機庫合流地点。手前が東六間川、むこうが足守川

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