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変わらぬ戸数・江戸から昭和
ー江戸時代・亀山村の戸籍からー

 私、現在「亀山の歴史」という本の編纂に携わっています。もちろん今、私が住んでいる倉敷市亀山地区、旧の岡山県都窪郡帯江村大字亀山という狭い地域の歴史です。
 「帯江の歴史・取材記編」の本を3年前に編纂しましたが、それを見た地元の方々が「この亀山の歴史も本にならないか?」と言い出されたのです。ほぼ1年前に編纂委員会が発足、会合も回を重ね、ようやく本が形になりかけてきたのです。今回はその中からトピックスを・・・

亀山村宗門改帳

 正確には「備中国窪屋郡亀山村人別宗門名歳御改帳」というものがあります。帯江村史(p363~)や(旧)倉敷市史(8冊・p468~)に載っているものです。これは、安政4年(1857)のもので、各家の家族の様子が、所属寺院・名前・年齢・続柄で記され、当時の亀山地区の状況が詳細にわかります。
 例えば、最初に出てくるのは

 一、真言宗駕竜寺檀那 家主 豊蔵  57歳
                妻  いと  44歳
                娘  たか  23歳
            娘  かの   2歳
     合 4人 内男1人・女3人  豊蔵 印
 一、真言宗駕竜寺檀那 家主 猶吉  46歳
            妻  とよ  42歳
            娘  あさ  16歳
            娘  かめ   4歳
     合 4人 内男1人・女3人  猶吉 印
 』
といったぐあいに、一軒一軒が書かれ、あとは134戸がずらずらと並んでいます。

 江戸時代には、庶民はそれぞれお寺さんに所属し、そこでの管理を受けていたのです。キリシタン禁令制度のためでしたが、今で言う「戸籍」が当時はこういう形になっていたと理解してもいいでしょう。

子供の少ない亀山村

 これについて、「新修倉敷市史(巻3・p707)」では、「老人、子供は、一軒平均でそれぞれ1・2人と0・8人。この村は子供が少ないのが目立つ」と分析しています。
 宗門帳では、最後に総家数134軒、477人、男254人、女223人となっています。平成18年(2006)調査(亀山公民館組合員名簿)での戸数は457ですから、当時でもう今の3分の1近い家があったようですね。
 たしかに134軒で子供が112人ではそう書かれてもしょうがないかもしれせん。(ここでは子供は男14歳以下、女12歳以下、老人は41歳以上になっています)
 子供の数は一軒当たり、近くの乙島村の1・9人、黒石村1・6人、倉敷村1・4人に比べても確かに少ないですね。当時の自然条件が厳しかったのは確かですが、なぜ亀山村が少ないのでしょうか?。  

多い「妻のいない家」

 よく見ると「男一人のやもめ暮らし」の家が、18軒もあります。33歳・27歳・59歳・61歳・25歳・22歳・83歳・・・・
 13%もの家が、男一人で、そして年齢も様々です。
 また、家族の中に「妻」のいない家が、そのほかに29軒。先の男の単身と合わせますと合計47軒(35%)、何と「妻」のいない家が三分の一以上を占めているのです。「子供が少ない」はずではありませんか?
 この宗門帳は、「嘉永洪水絵図(1850年)」の7年後の調査です。毎年のように襲っていた自然災害ですが、とりわけひどかった嘉永の洪水、「水7尺」が亀山村を襲った後遺症がまださめやらぬころのことと思われます。嫁の来ても少なかったでしょうし、おそらく疫病や産後で亡くなった女性も多かったのではないでしょうか?。
 あ、もちろん新修倉敷市史のいうように「間引きが行われたことと、子供の死亡率が高かった」という事情もあったと思われますね。

最高齢は83歳

 もちろん「家主、妻、倅、倅、娘」という理想的?な家も少なくないのですが、こうして1軒1軒見てみますと、当時の厳しさがわかるような気がします。
 老人(41才以上)も他の村に比べて少なく、32%となっていますが、60歳以上は46人だから10%弱です。今ですと老人会も寂しいことになりそうですね。
 あ、最高齢は83歳又吉さんと小次郎さんの2人です。又吉さんは一人暮らしですが、小次郎さんは、55歳の息子と嫁、さらにその養子32歳と嫁、さらに曾孫2人、合計7人家族で、幸せそうですね。
 まあ、幕末の当時はみんな農家ですけど、いろんな暮らしがあったようです。

昭和まで、ほとんど変わらなかった家数

 ではここで、亀山地区の人口資料を一覧にしてみましょう。

    戸数   人口    男    女
1652年/干拓 0?    
1857年(安政4)   134  477  254  223
1876年(明治9)  111  458  251  207
1951年(昭和26)  130   
2006年(平成18)  457     
*1857年は「亀山村宗門改帳」、1876年は「村誌・備中国窪屋郡亀山村」、1951年は「帯江村史」、2006年は「亀山地区公民館組合員名簿」から

 干拓から数十年で入植した人たちの戸数が江戸時代は引き継がれたとしますと(江戸期の全国的人口は、戦国時代から平和になったことによる当初の増員の後ほぼ200年間変わらなかったとされています)、江戸、明治、大正、昭和とおよそ300年間、亀山地区の戸数や人口は、あまり変わらなかったようなのです。そしてその後、平和と高度経済成長の結果、50年間で急速に3倍にもなっているのです。
 人々の暮らしにとって、『平和』がいかに大切か、あえていえば、『不戦を誓った憲法9条』がいかに大切か、ここにもその片鱗を見ることが出来るのではないでしょうか。(2007,7)

この絵は、亀山家に残された「嘉永洪水絵図」から亀山地区を抽出したものです。 inserted by FC2 system