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60年間、日記を書き続けた人
倉敷市帯高

 我が地元、「亀山の歴史」の本も完成間近です。「道の横には川がある・倉敷市亀山地区の歴史」というタイトル。なかなか面白そうでしょう!!
 というわけで、早くも次の郷土史本が企画されました。今年の春頃からお話があり、先日11人もの方々が集って、「編纂委員会」が発足しました。お隣の倉敷市帯高地区です。私もお手伝いとして最初からの参加です。

茶屋町のお隣、文化の香りが

 帯高地区というと倉敷市茶屋町の西隣、勿論江戸初期の児島湾埋立地の一角です。当時は「高沼開墾」と言われ、浅い海が陸地になったのですが、農業用水が確保できないで大変に苦労した地域です。大正から昭和・戦後にかけては、『三高い』と言って、全国的に有名な良質のい草の産地でもありました。
 また、私の同級生のお宅などのように、代々教職やお医者を輩出しているお宅も多く、なんとなく帯江地区でも西の羽島と並んで、文化の香りが漂ってくる地域です。そうそう、「竹内流」という古武道の本家や黒住教の大角教会所がかってあったところでもあります。
 またまた近郊の歴史本の編纂を手がけることになりましたが、なかなか面白い2~3年になりそうな予感がします。

米騒動から始まって

 そして、第2回の編纂委員会。とんでもない資料がでてきました。同所の高岩熊一さん(故人)の日記です。
 高岩さんは、明治33年(1900)生まれ。大正7年(1918)ごろから日記をつけ始め、昭和53年(1978)まで書き続けられていたのです。すごいです。昭和51年当時の日本農業新聞や岡山日日新聞、RSKラジオなどでも取り上げられました。
 大正7年のところには、「8月2日、富山県中新川郡の漁民達は、米価の高騰で餓死に貧し、ついに女一揆として起った。世に米騒動という(一升50銭也)。富豪を焼き討ちにすること次第に全国に拡がり、デマも飛んで・・・(略)。青年団員は地主中村純一郎氏に毎日詰めて警戒に当たった」という全国騒乱がここ帯高にも影響を及ぼしていた事実や、
 「帯江村模範青年として時の楠戸友太郎村長に推挙され、私立都窪郡農業補修学校に入学。・・(略)大正9年8月、主席で卒業する。」といった記事まで、全国情勢、地域情勢、そして個人の記録・感想までが書かれています。

瀬戸大橋起工式の記事まで60年間

 「大正15年10月9日。三井造船争議。(略)職工側より待遇改善条件を会社側に突きつけ・・・争議深刻化して・・・工場正門閉鎖。休業状態となる。」という戦前には珍しい労働争議の詳報。
 「昭和3年(1928)、帯江農事研究会創立5周年記念式・・」という当時の帯江地区の青年たちが、農業に意欲をもやしていたことの詳報。
 「昭和14年(1939)、稀有の大干ばつ。収穫皆無。支那事変のため孝平(本家の甥)出征中・・・」と国内が大変なときに働き手が戦争に取られていた実態も記録されています。 
 そして戦後になって最後のほうは、「人生のおむかえは後回しに・・・」といった人生観も多くなってきていますが、「昭和53年(1978)、瀬戸大橋起工式」まで続いています。
 日記の内容は、一行記事から、一日1ページにわたるものまで、長さは様々ですが、とにもかくにも60年間に渡って書き連ねてあったのです。

 「昭和4年(1929)倉敷茶屋町間の県道工事」「昭和6年(1931)県道倉敷茶屋町間全線省営バス運行開始」・・・・。貴重な記録です。
 「帯高の歴史」編纂には、これ以上は無い資料が出てきました。高岩熊一さん、ありがとうございます。同じ「村」の後輩としては、いやがうえにも張り切ってしまいますよ。(2008,9)

PS:「高沼の春・倉敷市帯高地区の歴史」。あ、本の題名が浮かんできました。明治以前は高沼村だった地域です。そして、なんとなく『春』という名がふさわしい地域のような気がします。

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