東風ふかば においおこせよ 梅の花・・・・ 菅原道真、涙の別れは羽島だった!?? |
学問の神様、菅原道真の天神伝説 |
菅原道真(844~903)はさきの小野小町より少し後の人物ですが、こちらはれっきとした歴史上の人物で、その生涯についてもかなり詳しく
解っています。
代々儒官として朝廷に重用された家系に生まれた菅原道真、文章博士から次々と出世をし、とうとう天皇を除くNo2の右大臣にまで上りつめます。
そのようなとき周囲の妬みを買うのは世の常。左大臣藤原時平の讒言により、九州太宰府の権師(副長官)に左遷されてしまいます。
そのとき道真は「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな」という有名な歌を詠み、九州で恨みを飲んで死ぬわけです。
そのあと都で道真の左遷にかかわった人たちが次々と悲運の死を遂げ、また飢饉や疫病が頻発、諸国の反乱もおこります。これらが道真の亡霊のしわざ
とされ、その霊をなぐさめるために道真に正一位太政大臣などと次々と官位を贈り、北野天満宮を造営、とうとう菅原道真は神、天神様となってしまいます。
その後その生涯は浄瑠璃、歌舞伎などで演じられ、また各地に1万社とも言われる天満宮、天神社が祭られ、数多くの天神伝説が生まれることになった
のです。
その一つ、羽島天満宮は、倉敷市羽島の西部、県道倉敷茶屋町線から南へ100mばかり入ったところにありました。小さな社殿の前庭には、幾株かの梅の古木が「みてみて。これが天神様を喜ばせた梅の花よ!」とばかりに、可憐な花を精一杯に開き、良い香りを漂わせていました。
『倉敷市史』と、倉敷文庫『民話・伝説』に |
倉敷図書館で本を探していただきました。あ、ありました、ありました。羽島天満宮の天神伝説。
一つは新しい倉敷市史の第3章民俗、第5節説話のところに天神伝説としてさきの羽島天満宮の由来が載っているものです。またこれには近くの倉敷市
天城、同唐琴にも菅原道真が立ち寄ったという伝説が残されていると書かれています。都から九州に流されたのなら、当然このあたりを船で通ったはずで、全くありえない話ではないと思われます。さっそくこの著者の方に問い合わせて、『倉敷文庫2・倉敷の民話、伝説』(森脇正之編)という本に、羽島天満宮由来の天神伝説が載っているのを教えていただきました。
元の倉敷図書館長森脇さんのこの一文には後日談もあり『天神様の自画像は海賊に盗まれ(略)、これを買った(尾道の)金持ちは、毎夜道真の姿が
枕辺に立ち「羽島へ帰ろう、羽島へ帰ろう」と言うので、もったいないことと思い羽島を訪ねてきて・・・』自画像が帰ってきたといういかにも天神伝説らしい説話が盛り込まれています。
道真の自画像?があった!。来年は25年目の御開帳 |
この羽島天満宮、現在は倉敷市羽島の西羽島、東羽島、日間、北浦の4地区が祭っているそうですが、地元で氏子総代をされている楠戸さんをはじめ数人の方からお話をうかがいました。そして倉敷市中庄の熊野神社宮司の大森さんが、羽島天満宮の宮司も兼ねておられると聞き、お話をうかがいました。
ところがこの大森さんのお話、まことに興味深いものだったのです。何と、菅原道真の自画像の軸というものがあると言うのです。1000年前に残されたと伝えられるあの自画像なのでしょうか?ますます興味津々となってまいりました。
『私は資料などは持っていませんので、確かなことは言えないのですが。春(2月第3日曜日)と秋(7月第3日曜日)には祭典をしております。で、その
掛け軸というのが本殿に祭ってあるんです。ところが25年に一度の御開帳のときにしか見られません。そして来年がその年ですので、春か秋の祭典のときに御開帳することになると思います。』
え~~~~~。す、すごい!!見たい、見たいです。はやる気持ちを抑えて24年前のことをお聞きしました。
『24年前は私が御開帳しました。その時にみんなで見てはいるんですけれども、かなり前のことですから・・?。実はその少し前にその掛け軸が盗まれるということがありましてね。ところが(盗んだ人が)悪いことばかり続いて、返しにこられたそうなんです。それで前回の御開帳が出来たというようなことがあり
ました。』
う~ん。現代にも続く天神伝説です。それにしても来年が楽しみではありませんか。
菅原伝授手習鑑のこと |
ここで最初の渡辺義明さんにもう一度登場していただきましょう。
『羽島天神の由来は(歌舞伎や浄瑠璃の)「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」が下敷きではないかと想像しています。菅原伝授手習鑑の2段目で菅丞相が九州に流される途中、津国安井の浜で風待ちしたときに、伯母の覚寿尼との対面が許されて土師の里へ行くというくだりがあります(冒頭の道明寺は土師の里の寺。当時は土師寺:杉原注)。その後日談的なものが倉敷地方のだれかによって脚色されたものだろうかと想像したりしています。とにかく才能ある人の手になるものと考えられますが・・・』
さすがに郷土史の大先輩にもなると沈着冷静な分析ではありませんか。
菅原道真と聞いただけで舞い上がっていた私は、さっそく図書館に行って歌舞伎の本を探して読んだり、古典芸能に詳しい友人から取材したり・・・。
『菅原伝授手習鑑・道明寺』、2時間にも及ぶ戯曲だそうですが、なかなかに面白そうです。それにしても、さきの小野小町といい、この菅原道真
といい、帯江の歴史研究で歌舞伎を勉強させられるとは、、、私の想像を超える展開になってまいりました。ふう・・・・(汗)。
PS2:そういえば今後取材予定の源平合戦にも有名な『藤戸』があるそうです。 歌舞伎でしたか?、謡曲でしたか?
「帯江村史」と、24年前に建てた解説看板のこと |
実はこの羽島天満宮について「帯江村史」では『年月は定かでないが延喜年間(901-922)と思われる。河内の国道明寺より管公の自画像を請け祀ったと言われている。戸川家の祟敬厚く広く信徒があった。(略)享和2年(1802)には900年祭(略)、額行灯が帯江役所門前から青木山まで175灯』というように書かれています。江戸時代の信仰が盛んだった様子がわかります。う~ん。1、100年前に請けた自画像とは??。
また羽島天満宮への県道からの入り口には、案内の立て札が立っています。昭和54年の作ですから、24年前のご開帳直後に立てられています。それによりますと、要旨『この天満宮の創建は、今から300年あまり前、大阪の道明寺天満宮からご神体の菅公画像を勤請せしものであり(略)。菅公1075年祭実行委員会建立』とあります。
今回この「300年前」という立て札の根拠を探ることはできませんでしたが、当時詳しく調査をされた故人がおられたことはあきらかになりました。残念ながら資料などは残っていないようですが、この立て札はその方が中心になって立てられたそうです。
私の個人的な期待をよそに、どうやら現存の画像の軸は、江戸時代に大阪道明寺からいただいてきたものだったようなのです。おそらく当時の道明寺住職か誰かが描いたものではないでしょうか?。
とにかくこの菅原道真伝説。このほかにも高松、尾道など各地に「立ち寄った」という話を残し、あるところではその「真筆の自画像」というものを鑑定に出した結果、「後世の作によるもの」という鑑定が出たとか?。おどろおどろしく、不思議で、また楽しい伝説ですね。(2003.3)