帯江の歴史に戻る
湖水→浅い海→象の陸地→また入海→水田
ーーー 帯江の変遷 ーーー |
うん~~ん。帯江って、いろんな変遷を経てきているんですね。先日「倉敷市自然史博物館をお訪ねしたおりのことです。「地学」??専攻の方が説明して下さいました。
『このあたりは「花崗岩」「流紋岩」が多いんです。向山は「流紋岩質」の岩石でできていますし、帯江銅山のあったあたりは「砂質岩」になっています。流紋岩は昔あついマグマが冷えて固まったものです。』
予備知識のない私には、チンプンカンプンに近いものでした。
でも、そのときみせられた「土層柱状図」というものには、非常に興味を引かれたのです。なにしろ帯江の土地の成り立ちを示したものだったからです。
その資料には、帯江の最東南端、茶屋町橋の近くのボーリング結果が載せられていたのです。地下約10mまでは細かい砂、徐々に粗くなって、10mを超えると旧石器時代(~2万年前)にうつり砂利層。なんて。。。。
それからの私はしばらくこの件の取材にかかりきりました(なんてHPが遅れた言い訳?)。
ここに「早島の歴史」という本があります。つい最近発行されたもので、りっぱな編集で5巻になっているのでしょうか。もし帯江が倉敷に合併していなかったなら??、「帯江の歴史」が出来ていたかも?なんて考えてしまいました。市町村合併って、負の面がたくさんあるようにも思います。早島は帯江に近いといいますか、地形的にはほぼ同じと言ってもいい土地です。そのなかに「倉敷の歴史」第3号を見ろと。。。
倉敷図書館にありました。年に1回発行されている紫色のパンフレット、「倉敷の歴史」。
な、なんと「西田~亀山地区地質調査の評価」(間壁忠彦)なんて大論文があるではありませんか?。瀬戸大橋工事の前、取り付け道路を作るにあたって、200mおきにボーリングをした結果を考古学的に分析した論文です。間壁さんありがとうございました。
間壁さんは、このボーリングの結果を「これを素人流に簡略化した模式図を示し」として右のような図を描かれています。ここでは間壁さんのこれについての説明を私(杉原)流にさらに素人解釈した説明を以下に記したいと思います。従ってこの文責はすべて私にあります。
- 1、まず表面に水田層があります。
- 2、その下に10m近くの砂、または粘土の層があります。これは縄文時代から干拓可能になるまで海中で堆積が重ねられたものです。
この下~中部では、塩分濃度の高い内湾とか入り江を想定できる珪藻類(プランクトンの1種)がみつかり、4、000年前のデータが出ています。
上層部は潮の干満で干潟もできるような状況がみられるそうです(うーーん。やはり「ムツゴロウウ」が??)。浅い海となって徐々に陸地化(干拓)されたのです。
- 3、その下には海水の入ってない10mの礫(れき)層があり、おそらく瀬戸内海も干上がっていた氷河時代に高梁川が運んできて積み重なったものだと思われます。ナウマン像のいたころのことなんでしょうか?
- 4、さらにその下には粘土の層があって「汽水性」となっています。汽水とは海水と淡水が混ざった状態で、今は島根県の中海や宍道湖などにみられます。おそらく瀬戸内海が今よりもう少し沖にあって、このあたりは高梁川の河口あたりで、海水と淡水が混ざった状態のもとで堆積したもののようです。ここからは2万4千年前の測定値が出ていますが、間壁さんはこれに疑問をはさんでおられます。
- 5、さらにその下、帯江の地下20m余より下から30m下の岩盤との間には、粘土と砂が交互に積み重なっていて、ここには「淡水性の遺骸が含まれる」となっています。この時代は海が引いて、この帯江の地は長く「瀬戸内湖」の一部だったようなのです。
こうみてきますと、この帯江の地は、当初の「湖(瀬戸内湖)」から「浅い海岸」へ、そして「像のいた陸地」へと移り、また「浅い入り海状態」へ、そして「水田」と変化を繰り返し、その間高梁川が運んだ土砂が30~40mにわたって堆積した上に、今私たちが住んでいることになります。なんと壮大な自然の活動なのでしょう。こう見てくるだけでも、この帯江の自然を守り後世に残さなければと思うではありませんか。(2000、10)