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江戸時代、帯江を支配した「旗本戸川家」

帯江地区のほぼ中央、戸川家の陣屋跡が

 帯江地区の中央を南北に貫く大動脈と言えば、県道倉敷ー茶屋町線です。毎日多くの車が行き交い、二号線などとの交差点は渋滞の列ができます。またその県道を通る倉敷ー茶屋町、倉敷ー早島・妹尾経由ー岡山間のバスは、戦後一貫して住民の足として活躍してきました。
 その県道の中ほど、西帯江というバス停があるのです。そこから北へ200mほどでしょうか、西へ入る道があります。羽島と二日市の境界にもなっているこの道を入ると、すぐ右に羽島郵便局があるのですが、少し行くと右へ入る道があります。角に「日間やくし道」といった道標もあり、古い道だとすぐわかります。今は「倉敷製帽」という会社がその角にありまして、そこを右に入ってまもなくあるのが「帯江戸川陣屋跡」なのです。
 ちいさな公園のようになっていて、写真のような石碑が建っています。目の前にある山裾からこの石碑を経て、さっきの道標あたりまでが、江戸時代を通じて帯江地区などを支配した、旗本3,000石、戸川氏の屋敷(陣屋)のあったところなのです。
 一万石以上は大名ですから、3,000石の旗本といえば大身です。
 もともとは江戸時代初期に、庭瀬戸川藩の分家として出来た帯江の戸川家です。ところがこの庭瀬戸川藩は後継者が無く、途中で断絶してしまいます。しかしこの帯江の戸川家、本家が断絶後も早島、妹尾などの同じ戸川分家とともに、独立した旗本として江戸末期まで存続することになるのです。

領主はほとんど江戸住まいでした

 そして江戸時代250年、8代にわたってこの戸川家が帯江地区などを支配したわけです。しかし旗本なわけですから、領主は江戸に屋敷を構え、江戸城詰めになり国元にはいないわけです。
 それでは江戸の帯江戸川3,000石、そして国元の帯江知行所。その8代について、その横顔を史料などにもとづきできるだけあきらかにしていきたいと思います。

PS:この「帯江の歴史」というHP,実は重い課題が2つありました。「源平合戦」と「帯江戸川家」です。ともに少々の取材では書けないもの。私が定年にでもなったらとりかかろうと、今まで避けに避けてきたテーマなのです。今回諸事情により「帯江戸川家」を調査執筆する機会が与えられ、急遽ここへの連載を開始してしまいました。乞うご期待、乱筆謝、誤りがあればご指摘下さい。(2002,6)

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