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帯江戸川氏初代、戸川安利と児島湾干拓

新田開発の先駆者、岡豊前守の孫として

 帯江戸川氏初代の戸川安利(やすとし)は、1615年(元和元年)、あの大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した年に、庭瀬藩主戸川逵安(みちやす)の三男として生まれます。が、ここで注目されるのはその母が、高松城の水攻めのときに堤防工事に力を発揮し、岡山県南干拓のさきがけとなった宇喜多堤(早島から倉敷までの堤防)の設計者といわれる岡豊前守元忠の娘であったということです。
 祖父に干拓の先駆者を持つ戸川安利が、この帯江の地に分家され、代々干拓をすすめて、この地方の歴史を開く役割を担ったと言うのも何かの縁かもしれません。

13歳で分家、そして幕府旗本に

 この戸川安利が父より3,300石の領地をもらい、分家したのは13歳のときです。今の中学2年生の時にすでに一家を構えたわけです。平均寿命も短かった当時ですが、人の独立も早かったようですね。
 江戸時代は一万石以上が大名で、領地と江戸とに屋敷を構え、参勤交代でその間を行き来しました。しかしそれ以下は旗本で、江戸幕府直轄の家来として常時江戸詰めでした。帯江の戸川家(以下帯江戸川家)は3,300石のいわば大身旗本でしたから、江戸の屋敷以外に知行所(旗本の場合は領地のことをこう呼びました)に陣屋(屋敷)を構えて、年貢の徴収をはじめ地方行政にあたる家来(役人)を置くことになります。
 こうして帯江戸川家初代となった戸川安利は幕府旗本となり、17歳になったとき書院番士として江戸城内に詰めるようになるのです。

当初は順調に進んだ干拓(新田開発)

 一方、庭瀬藩領から、帯江戸川家知行地となった帯江など地元では、従来から続いていた児島湾干拓(新田開発)がいよいよ軌道にのり順調に進んでいきます。
 1,623年(寛永元年) 加須山当新田
 1,652年(承応元年) 亀山新田
 このころにはまだ旧来の土地からの距離も短く、用水路も開きやすかったのでしょう。加須山当新田は埋め立ての26年後の1649年(慶応2年)には早くも検地が行われ、作物も順調に収穫でき始めたことをうかがわせます。
 もちろん現代の干拓と比べるわけにはいきませんが、この当時としては順調なスピードで進んでいったようです。
 全国的に新田開発が進んだこの時期、岡山県分はそのなかでもトップでした。その主なものに現岡山市南部と、この帯江早島両戸川家による、ともに児島湾の干拓があります。高梁川、旭川、吉井川という県下三大河川の河口あたりの浅海を埋め立てたものです。
岡山市南部は備前池田藩の直営工事として藩費が投じられたのですが、帯江早島側は旗本でそんなに財政豊かではありません。いちおう両旗本戸川家の工事ですが、一方で倉敷や児島、大阪の町人の資金も導入しながら、地元の有力農民や村方が一体になって進めたというのが特徴でした。
戸川安利もふくめ両戸川家初代当主の祖父が岡豊前守だということもあるのですが、干拓の中心になった豪農たちには、戦国時代は宇喜多家所属の武士たちで、関が原以後に農民になった人たちが多く、同じ宇喜多家だった岡豊前守の遺志を継いだ形で新田開発の中心になったこともあったようです。

新田 仕るまじきこと

 こうして進んでいった新田開発ですが、その先の高沼(たかぬま)新田(現在の帯高、早高)の開発になって、一転困難を迎えます。
 高沼新田は1,664年(寛文4年)いちおうの完成をみますが、用水不足でいったん失敗しています。そして12年後の1,676年(延宝4年)になって再開発が行われ、検地が行われるのはそれからさらに37年(1,713)も待たねばなりませんでした。
 倉敷市史に掲載された「農家常不退抄」(二日市の平松万右衛門が1,717年(享保2年)に書いたもの)という文書には「新田、仕(つかま)るまじきこと」としておよそ次のような意味のことが書かれています。
“加須山、亀山の開発はうまくいったが、高沼はいつになったら作物ができるのであろうか。こうしてみるとこれからは新田開発を請負うのは止めたほうが良い。”
 当事者として大変な苦衷がしのばれます。
 しかしその後も新田開発は進められていくのです。

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