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柳沢吉保と”元禄”を駈け抜けた、帯江戸川2代『安広』

 帯江戸川8代についてながめてみますと、何と言っても目立つのは2代安広(安廣)です。1957年発行の「帯江村史」によりますと、御書院番を振り出しにして次々と出世。西城(丸)留守居を経てついに勘定奉行にまで出世するわけです。
 勘定奉行と言えば(かの有名な財務ソフト、あ、ちょっと脱線)、今の財務大臣、日本の経済運営を一手に握る重職です。帯江出身の人としては”出世頭”ということができます。あ、もちろん中央政府の役人としてですよ。 人の軽重はそのようなもので計れないということは、重々承知のうえでのお話しですので、ゆめゆめ誤解の無いようにお願いいたします。(実は私も”それがどうした”といいたいのではありますが)。

 ま、まさか!!!あの柳沢吉保の側近だった??帯江戸川2代「安広」の出世

 「帯江村史」によりますと、戸川安広が世に出るのは、1664年(寛文4年)、父安利の死にともないその跡を継ぐときです。時はまさに児島湾干拓の真っ最中。亀山(帯江戸川領)、西田(早島戸川領)新田が完成し、高沼新田(今の帯高、早高、 高須賀)開発に苦闘していた時期でした。この安弘、10年後の1674年(延宝2年)には御書院番になるのですが、本当の出世が始まるのにはさらに10年を待たねばなりません。
 1684年(貞享元年)のことです。この年”将軍綱吉”の時代になり間もなく大老堀田正俊が殺されます。そしてあの柳沢吉保の出世がはじまるのです。
 1687年(貞享4年)、生類憐れみの令。
 1688年(元禄元年)、柳沢吉保が側用人となる。
 と続くのですが、な、なんとその直後、1690年(元禄3年)戸川安広は御使番となり、日光、肥前唐津などで活躍、目付(今で言うと検察高級官僚といったところでしょうか)になります。
 1693年(元禄6年)には戸川安広は、”桐間番頭”から”従五位備前守、翌年1694年(元禄7年)には”西城(丸)留守居”へととんとん拍子の出世を遂げるわけです。
 一方この間、柳沢吉保は同じ1694年(元禄7年)に、老中格へと破格の出世を果たしています。
 偶然だったのかどうか?、あの5代将軍綱吉のもと、柳沢吉保と、軌を一にして出世していった、帯江戸川家2代、戸川安広という人はいったいどういう人だったのでしょうか?。

 江戸最初のバブル経済、元禄時代の勘定奉行

 徳川家康から秀忠、家光ときて、ようやく江戸時代も落ち着きをみせ、幕藩体制が成立、諸藩も内政充実へと視点を変える時代になるわけです。
 そして登場するのが5代将軍綱吉です。生類憐れみの令などで悪名高い将軍ですが、一方で気がついてみると前4代の治世と綱吉とで、江戸幕府の財政はいつのまにか『火の車』状態を呈するようになってしまったようなのです。
 綱吉はそこで柳沢吉保を登用します。柳沢吉保は勘定奉行に荻原重秀を起用、な、なんと貨幣改鋳という手段に出るわけです。
それまで禁手といわれていた貨幣改鋳。全国の貨幣を回収し、金の含有量を減らして新しい小判を作る。それを流通させたら、さてどうなるでしょうか?。当座はたとえば100万両の小判を回収し、150万両に鋳なおして再発行するわけですから、幕府の手元には50万両が残るわけです。幕府ホクホクですね。こういう手段で将軍綱吉と老中柳沢吉保、勘定奉行の荻原 重秀は、1695年(元禄8年)から1699年(元禄12年)の間に、450万両ものお金を生み出し、一面では幕府財政の危機を救ったわけです。

 でもそうするとどうなるか?。当然経済はバブル化し、一見世の中は「繁栄」?、今に残る元禄文化花盛りの時代です。
しかし一方で物価は高騰し庶民の生活は困窮する・・・。という図式が目に見えるではありませんか。そして同時代を生きた水戸光圀の質素倹約精神が後世に人気を得て、現代の水戸黄門伝説へとつながるのもまたもっともなのかもしれませんね。
 話しを元に戻しましょう。勘定奉行荻原重秀が4度にわたる貨幣改鋳を行った直後、1699年(元禄12年)に、わが戸川安広にも勘定奉行のおはちが回ってきているのです。当時勘定奉行は定員4人で交代で実務を担当していたそうです。
 柳沢吉保にしてみれば、「おれの出世と同じように出世させてやった戸川某に、バブルの後始末をやらせよう?」と考えたのかどうかわかりませんが、幕府財政は立ち直ったものの、庶民生活は物価高騰に苦しむ!。そういう時代で、バブルがはじけないように舵取りをまかされた、帯江戸川2代戸川安広。相当の苦労があったのに違いありません。
 会社の危機に遭遇しらつ腕を振るう社長と、その側近ながらもドラスティックな政策と犠牲になる庶民達との、折り合いをなんとかつけようと必死に努力する実直一方の部下。バブル後、リストラとかいう名で非人間的な政策がまかりとおる現代を投影して、私の目にはこの安広さん、共感を呼ぶところ大なのです。
その証拠に板挟み生活の苦労からか、安広さんはその9年後には辞職し、直後に56歳で世を去ってしまっているのです。私の知人には、定年で退職後間もなく亡くなった方もあります。いわゆる燃え尽き症候群。勝手に想像して、勝手に「戸川安広ファン」になってしまった私ですが、その経歴から現代サラリーマン物語を思い起こさせてしまった帯江戸川2代、戸川安広さんの物語でした。

 帯江新田、茶屋町干拓の時代

 一方この戸川安広の時代は、地元では新田開発が盛んな時代でもありました。
高沼新田がようやく完成し(1676年・延宝4年)、安広が勘定奉行であった1707年(宝永4年)には沖新田(帯江沖=帯沖・早島沖=早沖、現在の茶屋町)が完成します。幕府重職で苦労をかさねていた安広にとって、この地元での朗報は、ほっと一息つかせるものがあったのではないでしょうか。
 茶屋町では、のちに戸川安広の新田開発への業績をたたえて「真如庵」を建て、永く遺徳を偲んでいるのです。この真如庵は、現在の茶屋町小学校の南西隣、瀬戸大橋線沿いにあります。

 この安広の時代には浅野事件などもあり、文化面では井原西鶴、松尾芭蕉、竹本義太夫、宮崎友禅斎などが活躍した時代でもありました。江戸バブル最盛期に、経済の舵取りをになっていたのが、帯江戸川2代、戸川安広だったわけです。(2002,6)

「真如庵」と、そのなかの戸川安広廟
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