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吉宗時代の御使番、三代安村、四代村由と帯江

兄の後を継ぎ、帯江戸川三代となった安村

 無理がたたたのか、56歳で死去した2代安村のあとは、東庄300石を領有していた弟安村(やすむら)が52歳で帯江戸川3代(3,000石)を継ぐことになります(1709年、宝永六年)。このときそれまで持っていた東庄の300石は幕府に没収されてしまいます。
 この安村、300石時代は20歳より小姓組を中心に幕府役職を律儀に勤め上げたようで、37歳のときには「年頃怠り無く勤めたにより、黄金2枚を賜う」などと表彰されています。兄が華々しい活躍をする一方で、きっちり地道に務めに励む弟、なんだかここにも“現代サラリーマン物語”をみるようではありませんか。

 この安村、兄が死去して300石から3,000石になったあとも、のんびりと御小姓組で過ごしていたのですが、これも幕府の激変に合い、晩年少しばかり活躍してしまいます。
 将軍が8代吉宗(1,716~)に変わった直後、1,717年(享保二年)突如として御使い番に採用され、「布衣を着るを許さる」となるのです。
 すでに六十歳になっていた安村、それでも「越後の国村上城……城引渡しの役」など数年間、おそらく吉宗側近として活躍したのち、当時としては長命の七二歳まで生きます。

養子村由も将軍の御使い番として

 三代安村のあとは、堀隠岐守利雄(初代浦賀奉行)の次男が養子として入り、四代戸川村由(むらより)となります。
 義父に引き続き「御使い番」「布衣を着るを許さる」となり、1,735年(元文元年)には「石見の国津和野および浜田に赴き国政を監す」とあります。
 この村由、将軍が吉宗から家重に代わると(1,745年)御使い番を解かれ、「西城持筒頭」そして「小普請組支配」へとうつります。どうみても、三代安村の晩年、そして四代村由の二人は、八代将軍吉宗の側近として活躍していたと、その経歴からは読み取れるのですが、はたしてどうだったのでしょうか?。
 その後の村由は、1,764年(明和元年)に息子に跡を譲り隠居。それからさらに20年、1,785年(天明5年)87歳という長命を全うすることになるのです。

地元の干拓はようやく落ち着いて

 二代安村のとき一応の完成を見た沖新田(今の茶屋町)もこの四代村由のころには落ち着きを見せます。1,729年(享保14年)検地。そして1,731年(享保16年)には上納がはじまります。
 勿論苦闘した高沼新田も、その前1,713年(正徳3年)には検地が行われ、ようやく軌道にのってきます。
 この検地については、沖新田検地のおり、わざと長い検地尺を用いたため、沖新田はそれまでの新田に比べ、一反が実質一反二畝あり、これが農民に有利なことで、のちの茶屋町地区の繁栄につながったと言われています。これも茶屋町地区の住民が干拓当時の戸川家当主戸川安広を祭る真如庵を建てて、長く感謝を表した理由の一つになっているのです。
 こうして帯江知行所地域は4代140年にして、はじめてその全体の姿がはっきりと現れてきます。

しかしその後の江戸時代約一〇〇年、激動の日本列島の荒波にもまれて、ここ帯江知行所もそれほど安穏というわけにもいかず、それなりに激動しているのです。

「梅鉢」、「三本杉」、そして「波に水尾杭」

   ここで帯江戸川家の家紋について再度ふれておきましょう。帯江戸川家では次の六つが家紋として使われています。

 うめばち梅鉢  (家の紋、幕の紋)
 さんぼんすぎ三本杉 (家の紋、幕の紋)
 七九の桐(家の紋)
 丸に二つ引(家の紋)
 剱梅鉢 (替紋)
 波に水尾杭(みょおぐい、替紋)

 このうち、最後の「波に水尾杭」については、戸川家に次のようなことが伝わっています。
 「先祖の戸川秀安が、豊臣秀吉の命で朝鮮に行ったとき、海が荒れてどちらが朝鮮か行き先がわからなくなった。そこで一心に念じたところ波の向こうに一本の杭が見えた。これはあの方向だと進んだところ、無事に朝鮮に着いた。あとでこの話しをしたところ、豊臣秀吉が以後この紋を使うと良いと、直々に賜った紋だ。」
 また現在残っている元帯江陣屋の瓦には、三本杉が使われています。

 戸川家の紋所

右上から左へ、「梅鉢」「三本杉」「七九の桐」「丸に二つ引」下へ「剱梅鉢」「波に水尾杭」

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