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世情騒然・帯江五、六代と三十三観音

相次ぐ大飢饉、田沼時代の五代村真

 帯江戸川五代は戸川村真(むらざね)が継ぎます。明和元年(1,764)27歳で五代となった村真ですが、その後の約30年間はほぼ無役だったようです。
 しかしその間はまた、日本列島が騒然とした時代でもありました。年表を繰って見ますと、「○○大飢饉」「○○農民一揆」「○○騒動」「江戸大火」「逃散」「強訴」といった文字が並びます。どうやら今からちょうど200年余り前に、30~40年ほど異常気象が続いたようです。
当時鳥居坂上にあったという帯江戸川家の屋敷も、寛政4年(1792)江戸大火で全焼しています。まさに世情騒然、「伊勢御蔭参り」が大流行したのもこの頃で、出口をもとめた民衆のエネルギーはけ口の一つでした。
 こうした時代背景の中、政治の舞台では田沼意次が出世していきます。一揆をきびしく取り締まる一方、賄賂政治が横行し、明和9年は「めいわく年」などと称されたりしています。そして天明6年(1786)将軍の交代とともに田沼意次は罷免され、松平定信の倹約令、寛政の改革へと進んでいくわけです。
 江戸中期のこの激動期、ほぼ無役ですごした帯江五代村真、どういう気持ちで日々を過ごしたのでしょうか。またその間にあたり、次に述べる帯江三十三観音にはどのようにタッチしたのでしょうか?

村々に広がる、帯江西国三十三観音

 帯江地区の主要な用水路は浜川用水です。この用水筋はまた当時の主要な交通路でもありました。そしてこの浜川用水の主要な位置にお地蔵様が祭られています。ところがよくみますと、その横に必ず船形石に刻まれた観音像もあるのです。
 「第○番、明和八年…」などと書かれています。
 明和8年(1771)に成立したこの帯江西国三十三観音、一番は心鏡寺(羽島)の脇本尊、金ピカの観音様ですが、2~33番は船形石に彫られた石の観音様です。この観音様、地方にあるミニ観音霊場としては、大きくて立派だと言われています。土台石の下から計ると、およそ155cmとほぼ等身大の石仏なのです。
この観音像は、浜川用水沿いのほかに、帯江領内の各寺院、また村村の入り口など、広範に分布しています。
 打ち続く異常気象、国内騒然とする情勢は、この帯江知行所へも大きな影響を及ぼさずにはいかなかったのでしょう。せっかく成った広い新田、その新田に用水を送る用水路の安全を願って、また村々の安全を願って、西国三十三観音霊場を模した帯江西国三十三観音が、帯江戸川家の領地内に設置されていったのです。
 成立間もない新田、おそらく旧来の農地より手がかかり、また用水工事などの出役も多かったに違いありません。高梁川の氾濫による洪水も定期的にあったようです。流行のお伊勢参りもしたでしょうが、領内の三十三観音巡りで豊作を願った農民たちの気持ちが良くわかるではありませんか。
 この帯江西国三十三観音、帯江地区のほかに、茶屋町地区の帯沖、豊洲地区の五日市などにも分布しているのですが、当時同じ帯江戸川氏の知行地だった、早島町の宮崎、庄地区の二子、東庄などに分布していないのも不思議なことです。

ようやく役入り。五代村真、六代安章

 長く無役が続いた帯江戸川五代村真ですが、将軍が代わる(徳川家斉1789~)とようやく役が巡ってきます。
 寛政6年(1794)寄合い肝いり。翌年お先鉄砲頭。布衣をゆるさるとあります。
 でも戸川家もここで次の六代安章(やすあきら)の時代へと入っていくのです。
 安章は、1804年、35歳で祖父のように、御使い番になり、20年間を勤めるわけですが、その間1810年には駿府目付代として静岡県へ出張したりしています。

前潟事件、帯江・早島両領の紛争

   「帯江戸川家と、早島戸川家は、協力して干拓事業に取り組み、成果も折半し、大変仲がよかった」と言われていますが、しかしそのため領地も入り組み、次第に紛争もおこるようになってきたようなのです。
 現在の早島町の町部を除く東南部の多くは「前潟」と言います。この前潟新田は、早島村庄屋助左衛門が総元締めになって開発されたものですが、戸川本家(庭瀬)の仲介により、新田完成後は早島方と帯江方とで地所を折半することになりました。そうして今の早島駅や駅前通り近辺などは帯江領になったのです。作物の実らない当初は早島方がいろんな事をひきうけていたようなのですが、そのうち帯江方も独自の主張をするようになります。
 ここで早島方が、箕島との境(東境)にあった堤を「不用になった」として平にして耕地にするという決定をし、工事を始めたのです。ところがその堤は、帯江方領地に接していましたので、帯江方からそこは帯江領だと異議が出て、紛争になりました。
 様々な経過の後、天明7年(1787)とうとう帯江方が幕府寺社奉行所へまで訴え出るという大変な事態になったのです。
 結局幕府評定所では、「元のように堤を戻す」という決定になったのですが、この経過のなかでそれまで早島方が取り仕切っていた前潟村での帯江方の独立性が強まり、両領の間で「和解」の文書が取り交わされることになるのです。

 寛政6年(1794)「御両領村々和融申合為取替一札」(帯江村史89ページ)という文書があります。
一、 これまで通り、(帯江・早島は)一体として仲良くすること。
一、 文通などで掛け合うのはやめ、双方が直接会って、腹蔵無く相談すること。
一、 すべて古形を守り、紛争をおこさない
一、 両領の農民は、両領の役人に同じように礼儀を守ること
 そのほか、前潟以外の両領の紛争事件についても、細かな取り決めをしています。

 兄弟知行所として仲が良かったと言われる帯江・早島ですが、実際にはこのような取り決めで双方の関係が調整されていたのです。
 なお、この取り決めも時代とともに次第に形骸化してきたとみえ、66年後、幕末の万延元年(1860)には、倉敷商人植田氏が仲介人となって「御両領和融の書」を再び取り交わし、さきの文書を再確認しています。

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