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帯江戸川最後の領主は、学問所と鳥羽伏見

 帯江戸川氏八代戸川安愛(やすちか)は、文久二年(一、八六二)二九歳にして父から家督を相続します。ところがこの六年後にはすでに明治維新なのです。安愛さんは最初から社会的大変革にさらされることを運命つけられていたわけです。

  鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜と運命をともに。八代安愛

 二四歳で部屋住みのまま中奥番になった安愛は、大番頭になった父の影響もあってか、小納戸、布衣と出世し、家督相続後は一挙に目付けになります。
 文久三年(一、八六三)には京都へ派遣され、江戸との度重なる往復や、「外国御用立会い」や但馬の巡検など活躍します。翌元冶元年の禁門の変では、長州家老に慶喜の撤収命令を伝える役や、慶喜の命で諸大名の陣地を見まわる役や、福原越後、国司信濃など長州三家老の首実検にも立会い、、最後は長州萩で長州の沈静を見届けたり、まさに獅子奮迅の大活躍だったようです。この間何回も軍艦にて江戸との間を往復しています。
いったんは病気で退任するのですが、慶応元年(一、八六五)には大阪にて目付けに再任され、京都、大阪、広島で活躍。翌年には大目付となります。ますます忙しくなり、江戸、京都、大阪をたびたび往復。高知、長崎などへも出張します。
 おりしも薩長連合軍と幕府軍の対立がきびしくなります。このとき戸川安愛は「挙正退奸の上書」を出すなど、徳川慶喜を擁して幕府方主戦論の中心になったと言われています。
 そして明治元年(一八六八)一月、鳥羽伏見で両軍が激突。敗れた戸川安愛は、同二月、明治政府から徳川慶喜とともに官位差止め、領地家屋敷没収のうえ、追放になってしまいます。地元帯江の陣屋も天領だった倉敷代官所と同じように、征討軍側の岡山池田家に占拠されてしまうのです。

初代帯江小学校校長、戸川晩香(安愛)

 さて、追放となった戸川安愛のその後はどうなったでしょうか。記録では明治元年の一一月には一族郎党を率いて駿府(静岡)へ引越し、静岡藩の中老を勤めています。東京との間をたびたび往復、明治二年(一、八六九からは)静岡藩権参事(副知事相当)として働いています。廃藩置県後は宮内省を経たのち、明治五年には弟最兎女栄秀(ひでのぶ)に東京の士族としての戸川家の家督を譲り、民籍編入(平民となる)、郷里に帰って窪屋郡長を勤めたようです。
 一方安愛は、若い頃学問所で「学問吟味、合格」などたびたび表彰されたり、二四歳で「幕府学問所教授方手伝出役」、「漢文講義上覧」など、その才をはっきしています。そしてこういう激動の中でも安愛は、地元の教育活動に力を入れているのです。慶応二年(一、八六六)二日市に学問所を設置、植田亮哉などの当時著名な学者を教官とし、家中、郷中の子弟を教育したと言われています。
 そして、身一つとなった晩年には「晩香」と称して、帯江小学校初代校長(当時は首座と言った)を勤めたのです。 もと領主が小学校長を勤めたなど、全国にもあまり例がないのではないでしょうか。
 帯江の地元での戸川家菩提寺は、元陣屋の西にある「妙忍寺」で、代々の墓地などもあります。安愛さんのご子孫の方は今関西在住ですが、菩提寺供養など続けておられると伺いました。

もう一人の幕末戸川氏、「栄秀」のこと

 これまで各種資料には出てきませんが、ここで八代安愛の弟「栄秀(ひでのぶ)」のことについてふれておきましょう。
 幕府要人としての活躍が多かった八代安愛ですが、その間江戸の帯江戸川家は弟の栄秀と家老の岸氏(元大阪府知事の先祖)が中心となってきりもりされてきました。そして八代安愛は追放になったとき、この弟に江戸の戸川家の後事を託したのです。屋敷没収で一族郎党をかかえ、戸川栄秀もさぞかし苦労したにちがいありません。また明治13年には、帯江の晩香と相談して、荒れ果てた菩提寺玄照寺の諸墓を整理し三基の碑にまとめています。この玄照寺は関東大震災のあと(昭和のはじめ)、芝白金(泉岳寺の近く)から現在の北烏山へ)移転して現在に至っています。その後東京の戸川家は、この栄秀の後裔の方々が守り、現在にいたっているのです。

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