帯江の歴史に戻る
羽島縄文人は東大在学中でした
ー7,000年の時空を超えて、帯江人の先輩とご対面ー

 帯江で最も古い人の痕跡、羽島貝塚。そこから大正時代の発掘で人骨11体が出ている!!(帯江村史p16)という話しは私にとって大変に興味深いものでした。
 その人骨はどうなったのだろう?、見てみたい!、会ってみたい!!。ということでこの二カ月、その調査にかかりきりになった私でした。

インターネットで検索、各所にメールを打って
 大正時代の発掘は京都大学の島田貞彦助手と地元の福原八郎さんが協力して行ったことになっています。帯江村史ではそのことについて「発掘時 大正九年陰七月六日より一八日間。(略)人骨 十一体 すべて長大 五尺八寸 のもの完全 医博京大教授清野謙次氏によって京大に寄贈(略) 」(p16)とあります。
 また倉敷考古館長の間壁さんは「あれはいろいろいきさつがあって、清野教授の手で結局東京大学に納まっているはずだ。」といわれるのです。
 そこでインターネットで、東京大学や京都大学のHP、そして清野謙次関連の記事の検索をしてみました。しかし、「羽島貝塚出土人骨」などという記事はどこにもありません。
 では、と東京大、京都大の関連するらしい部署やそれらしい博物館あてに7通の問い合わせメールを打ったのでした。

そして当たりました。東京大学総合研究博物館
 いくつかのメールのやりとりや電話の問い合わせの結果 、ついに当たったのです。”羽島縄文人”の行方!。1つは「東京大学総合研究博物館」、いま1つは京都大学「人類学講座自然人類学研究室」にあると。
 で、出かけてしまいました。東京大学。
 上野駅からわりと近いところにあるんですね。上野公園沿いにテクテクと歩いて一路”本郷”を目指します。「あれっ、そうか、アメ横ってここだったんだ。」おのぼりサンには東京は珍しいものだらけでもありました。寄り道寄り道・・・

 有名な赤門を入り右へ。その突き当りが「東京大学総合研究博物館」でした。ずいぶん長く固いお名前ですが、これが”羽島(帯江)縄文人”が現在”在籍”しているところなのです。
 「人類先史部門」担当の諏訪助教授と事前に電話でいろいろと教えていただいたTさんに出迎えていただきました。
 「このたびはご無理なお願いをしまして・・」恐縮しいている私に『倉敷考古館は参観者が少ないようですが・・』おっと、どうやら私のHPを見ていただいているようです。感激している私にさらに追い討ちが・・『ラーメンお好きなんですね?』
 ありがとうございます。いっぺんに緊張が解けてしまいました。

対面、羽島縄文人と帯江現代人
  『ここらあたりが羽島のものです』広い部屋いっぱいのロッカーの一角でした。こ、この部屋いっぱいが出土人骨なのでしょう。大変な量です。指差されたのは入り口のすぐ近くでした。ずらりと並ぶ木箱のうち、ちょうど目の位置にあるものが1つ、2つ、3つ・・・。そう、7個に「羽島」の文字が見えます。中にはそれぞれ頭蓋骨のようなものが納まっています。『羽島3』『羽島6,7a』『収集年月日1920,8』などの文字も。
 あっ、こ、これ、いや、この人たちがそうなんですね。とうとう7,000年の時空を超えて、”帯江人”の先輩たちとの対面が実現したのです。頭骨の上半分だけのもの、保存状態がよくて眼窩の形がわかるもの・・・、さまざまですが”おうおう、帯江からやってきたか。子孫たちは元気でやっているかい”なんて言葉が聞こえてくるような、やさしい姿をした”骨々”と私には感じられました。
 さっそくミーハー的に記念写真をとらせていただきました。おっと、ピースを忘れていますね。さすがの私も超先輩たちと一緒なので上がっていたのですよ、きっと。

津雲貝塚人骨の再現展示が
 研究対象のため、頭骨とそれ以外の骨は分けて保存してあるそうで、手や足の骨などは部屋の一番奥の木の容器にならんでいました。その横では復元作業なんでしょうか。若い方がいくつかの人骨を前になにやら作業を・・。毎日毎日人骨相手の作業と言うのも私などには想像もできませんが、日本の学問もこういう努力の積み重ねから成っているのでしょうね。きっと。
 ちょうどこの日はこの博物館の常設展示「骨」が開催されていました。今年の夏までの展示のようですが、そのなかに「縄文人の埋葬骨」というのがありました。”津雲19号人骨”だそうです。1919年ですから羽島貝塚発掘の前年に発掘されているのです。そうなんです。津雲貝塚とは同じ岡山県の笠岡市にあって、なんと170体もの人骨が出た全国的にも超有名なところなのです。『このように復元したのははじめてなんです』というTさんの説明もそこそこに、思わずここでも記念写真におさまってしまいました。

 

東京大学博物館のデジタルミュージアム
  6~7,000年前の超先輩の招きで初めて東京大学に足を踏み入れた私ですが、この7人の羽島縄文人たちは、もう80年近くも東京大学に「在学」しておられるのです。東京大学総合研究博物館では現在収蔵品を次々に電子化して、インターネットホームページにデジタルミュージアムとして公開しておられます。近い将来この羽島縄文人ともインターネット上でいつでも会える日が来るかもしれません。と思い、超先輩たちの今後の活躍を願いつつ、夕闇迫る本郷の地をあとにしたのでした。

 男性6人、女性5人
 東京大学では資料として「人類学雑誌第56巻第12号、昭和16年12月(1941年発行)、備中羽島貝塚人骨 長谷部言人」という論文のコピーをいただきました。大正9年12月に東京大学の長谷部さんが、この人骨の送付をうけたのち、仔細に点検して報告書として大正10年に脱稿、その後一部改定してこの雑誌に載せられたものだそうです。

 なんと1つ1つの人骨のかけらにいたるまで、本当に細かくチェックして解釈し、報告されています。これによりますと羽島の11体の人骨は男性6人、女性5人で、若年2人、他は壮、老年と推定されています。津雲の再現人骨ほどではありませんが、このように具体的にされるとますます親近感が沸いてくるではありませんか。
 人骨は長谷部さんが点検したのち、4体を京都大学の清野教授のところへ返送したとあります。これが現在京都大学にあるもので、他の7体分がここ東京大学に残されているもののようです。(2000,1)   inserted by FC2 system