帯江の歴史に戻る
東京の戸川さんは今

 戸川家のことを調べていますと、誰でも「今の子孫はどうしておられるのだろう?」と思いますよね。最後の当主8代さんは、明治になって岡山に帰ってきて、窪屋郡長などを務めたことになっています。ではこちらに子孫が?。でも代々のお墓は東京のはず。
 いろんな文書には「墓地は白銀の玄照寺」と書いてあります。ネットで「東京・玄照寺」を検索すると数件がヒットしました。ただ”白銀”というのは見当たりません??。”北烏山”というところに同じ名前の玄照寺があるようなのです。
 おそるおそる電話してみました。「あの、そちらさまはかって旗本だった戸川さんの墓所のある玄照寺でしょうか?」
 見事に当たったのです。そして関東大震災のあとお寺が引っ越したこと。今も戸川家のご子孫が参ってこられること・・・・次々と教えていただきました。そして、夏の暑い一日、その戸川さんにお会いするため、また菩提寺を訪ねるために上京したのです。

 帯江戸川家のご子孫は、都心で活躍されていました

 東京の秋葉原駅から東へ少し行くとJR錦糸町駅があります。そこから20分ほど歩いたところに帯江戸川家のご子孫のお宅がありました。小学校の通りを少し回ったところ、いきなり「戸川ビル」という広い2階建ての建物があらわれたのです。下が工場で天井が高いため、4階建てのようにも見えます。
 そしてそのビルの一角で私を出迎えてくれたのは、先年亡くなって7回忌を終えたばかりという前のご当主故戸川俊郎氏の奥様戸川恵美さんと、このあと帯江戸川家の先祖供養など一切を切り盛りしていかれるという、甥の戸川安宣(この名前、たしか代々のなかでみたような?)さんでした。
 「私もう80歳になってしまいました。少し耳が遠いのでごめんなさいね。」上品ながらも快活にそうおっしゃる恵美さんは、それでも私の持参した「戸川家物語」という早島町教育委員会発行の小冊子の小さい字を、むさぼるように読んでいかれます。生前ご主人は製罐会社を経営なさっていたそうです。また一族のなかには、羽黒山山伏研究の権威の方もおられるとかうかがいました。
 「あ、そうね。この安利さんからが、私のところですよね。」
 お隣でにこにこ笑っておられる安宣さんは、これも有名な推理小説を発行する出版社の経営責任者と言う名刺をいただきました。上京した私のためにわざわざ午後の仕事を休んでいただいたようなのです。ありがとうございました。
 明治維新のとき、帯江戸川8代安愛さんは、徳川慶喜を擁して鳥羽伏見で戦い、領地没収のうえ追放になります。そのとき東京の戸川家のことを、弟の愛秀さんに託すわけですが、今東京で帯江戸川家を守っておられるのは、その愛秀さんの後裔の方々とうかがいました。
 「さて、何からお話ししましょう?。」という恵美さんに「実は私も、今日うかがって何が判るか、良くわかっていないのです。」と私。今日の訪問はこうした漫才問答から始まりました。私も、初対面とは思えない息の合い様に驚きながら、ご主人が集めておられたという段ボールいっぱいの資料を拝見するところから始めたのです。

7代安栄、因幡守の証書先祖書の巻き物

浪に水尾杭の紋所

 丁寧に置いてある箱の中から最初に出てきたのが、家紋を記した書付でした。梅鉢、三本杉・・・・最近戸川家の調査を始めたばかりの私にもおなじみの紋所が見えます。ところが6つ目に初めて見る紋所があるではありませんか?波のような雲のようなものがいちめんにある中央に、短冊のような、柱のようなものがあるのです。うーん。何でしょう。「こ、この紋って、何です?」
 「あ、それね。私もこれだけは不思議に思って、主人から聞いているんです。”波に水尾杭(なみにみょうぐい)”と言うらしいんですよ。。」恵美さんは能弁でした。

 戸川家の紋。右上から「梅鉢(家の紋、幕の紋)」「三本杉(家の紋、幕の紋)」「七九の桐((家の紋)」「丸に2つ引(家の紋)」「剱梅鉢(替紋)」「波に水尾杭(替紋)」

 「戸川が秀吉さんの命令で朝鮮へ行ったとき、瀬戸内海の何とかいう水軍を連れて行ったのですって。ところが海が荒れて、どちらが朝鮮か行き先がわからなくなったと言うんです。そこで一生懸命みんなで拝んだところ、波のむこうに一本の杭のようなものが現れたのですって。これはあの方向だと進んだところ、無事に釜山(ふざん)というんですか?朝鮮の端に着いたのだそうです。それで秀吉さんから戸川に”浪に水尾杭”の紋を賜ったということだと、主人が言っておりました。」
 う~ん。そうするとこの紋所は世に戸川家にしかない珍しい紋所なんだ。す、すごいですね。
 「えっと、この額が・・・云々。そしてこれが伝わっている先祖書きです。そしてこの巻物が以前の玄照寺に残っていたというものです・・・・。」
 次から次へと出てくる資料。ついでにお菓子も目の前に積まれて行きます。ダイエットを気にしながら少しずついただいて、デジカメで一生懸命撮影していた私も、ついにたまりかねて「す、すみません。一部預からせていただいて、コピーしてからお送りしますので。」と言ってしまいました。
 うーん。正直言うと達筆な毛筆で書かれた諸文書、私にはどれだけ読めるか、まったく自身がないのですけれども。

京王線久我山駅の近くに玄照寺はありました

 帯江戸川家菩提寺の玄照寺は、東京23区の一番西の端、京王井の頭線久我山駅の近くにありました。ラグビーや野球で有名な国学院久我山高校もすぐ近くです。
 タクシーを下り、「日蓮宗 玄照寺」と書かれた門を入ると、目の前いっぱいに広い庭が広がります。ちょうど庭木の手入れ中でしたが、うっそうと茂る木々からもその古さがうかがえました。
 ご住職が先に立って、本堂の裏手にある墓地へと案内して下さいました。かなり広い墓地の、いちばん奥の一角に戸川家の墓所がありました。低く囲ったなかに、数個のお墓が並んでいます。ご住職が案内してくださった立派なお墓には「戸川安栄之墓」とありました。江戸末期、甲府勤番支配から大番頭を務めた7代安栄の墓です。前には戸川家家紋の三本杉が浮き彫りしてあります。
 横手には「戸川家累代祖宗之墓」など3つが並んでいます。裏側には明治13年にこの代々墓にまとめたことなど由緒が書いてありました。古いお墓なのにあまり痛んでいないのに驚きました。
 入り口左手には現在のご当主が建立された「戸川家の墓」があります。残念ながらこのご当主、戸川俊郎さんは先年亡くなられ、先日行われた7回忌法要のお花がまだ残っていました。
 「このお寺は慶長19年に芝白金に建立、開山は忠禅院日延です。昭和2年にこちらに移ってきました。」ご住職が説明して下さいました。よくまあこれだけのお墓を遠いところから運んだものです。妙なことに感心しながら退出したのでした。

 思い立って早々の今回の東京戸川さん訪問。私にとっては期待以上の成果でした。帰りの新幹線の中で書くこのノートの字が踊っているのに、自分でも苦笑しています。(2002,7)

帯江戸川家墓所全景7代戸川安栄墓明治13年の累代墓

inserted by FC2 system