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源平藤戸合戦最大の謎??漁師(浦の男)のこと

 源平藤戸合戦(1184年12月)、源氏方の武将佐々木盛綱が、一介の漁師(資料では「浦の男」と称されているのが多いのですが、ここでは漁師とします)の助言を得て、逆巻く海峡を馬で渡り、源氏方を大勝利に導いた・・・という筋立てはあるのですが、この漁師についてはその後いろんな説が残されているようです。
 前回この漁師の物語が謡曲として、室町時代から全国で流布され、室町将軍や豊臣秀吉などの歓心をかったということまではお伝えしました。しかし事態はまだまだ複雑怪奇に展開していたのです。さてさて・・・。

 

漁師に名前があった!『惣十郎又は与介』

 私が地元の郷土史家の大先輩片山新介さんを久しぶりにお訪ねした時のことです。片山さんは「源平藤戸合戦ではこんな資料があるんだよ。」とやおら取り出して、いきなり読みはじめられたのです。
 「浦の男、名は惣十郎又は與介・・・・」
 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。」と私。
 私も源平藤戸合戦についてのお話しはいろんなところで、それこそ耳にタコができるほど聞かされてきたのですが、不明にしてこの漁師(浦の男)の名前について聞かされたことはなかったように思うのです。もしかしたらすごいスクープなのかもしれません!!。

 片山さんが取り出されたこの文書は「古今物語、御津・津高・児島」という名になっています。片山さんの解説では「これは『吉備前鑑』で、元禄期までの成立とされている」(「倉敷の歴史」第12号より)ということでした。
 でも私にとってはこの漁師の名前判明は大事件でした。そのとき私は大変なスクープを手にした思いで片山さん宅を辞したのでした。
 その後「源平藤戸合戦」(源平藤戸合戦800年記念祭実行委員会編・1984年)という小冊子にも浦の男屋敷跡の項で「若い漁夫の名は、惣十郎とも喜十郎とも、あるいは与介とも伝わっている」という記述があることがわかりました。  どうもスクープまではいかず、知られるところには知られていたようなのです。

 

なぜ!?漁師の屋敷跡は、平家本陣の後方にあった

 この「帯江の歴史・取材記編」を書き始めた当初より、源平藤戸合戦について「粒江に漁師の屋敷跡がある。」という情報は寄せられていました。
 でも、しかしです。この漁師というのは帯江側(源氏方)の浜辺をうろついていて、佐々木盛綱と出会い、短刀をもらって藤戸の瀬の浅瀬を教えたのですが、秘密保持のために殺されてしまうわけです。その漁師の屋敷跡が対岸の粒江側(平家側)にあるというのは、素人考えではどうも納得できないことでした。そのうえ戦後この漁師の母親が「佐々木と言えば笹まで憎い」と全山の笹を引き千切ったという笹無し山は帯江側有城のすぐ前にあるのです。ということで私はこれまでこの漁師は帯江側に住んでいたに違いないと思っていたのですが??。
 今回現地を調査してみますと、瀬戸中央道沿いに広がる源平藤戸合戦古戦場のなかで、少し南よりにあったのが「カガリ地蔵」という元平家本陣跡といわれているところでした。ところがかの「浦の男屋敷跡」はさらにそこから南へ山を分け入った、今の倉敷クリエイティブパークという工業団地の奥のあたりにあったと言うのです。
 天下分け目の源平藤戸合戦。その平家本陣のさらに後方に住んでいた漁師がうろうろと迷い出て、対岸の源氏方の浜辺にいた。さらに源氏の武将の求めに応じて浅瀬を教えて、平家壊滅のきっかけをつくった・・・。どうみても納得できない不思議な構図ではないでしょうか?
 それで私はこれまで、「戦後に漁師の子孫が佐々木盛綱からもらった屋敷」と解釈していたのでした。

かがり地蔵(平家本陣跡) この谷の奥に浦の男屋敷跡があったという

 

再び『吉備前鑑』から、浦の男「伊吹兄弟説」

 私、久しぶりに片山さんからいただいた「吉備前鑑、古今物語、御津・津高・児島」の一部のコピーを見直しておりました。ところがそこに意外な記述があったのです。当初見えなかったものが資料を見なおすことで新しく見えてくる・・・ということありますよね。ということでその記述の部分を私流に意訳してみます。
 「浦の男というのは宇多天皇八代の孫の子孫、伊吹喜七郎(のちの先陣庵主)、喜十郎兄弟で、藤戸海辺の主だった。(源平藤戸合戦に際し)知略を働かせて弟の喜十郎が浦の男に扮し、同族である佐々木盛綱に手柄を立てさせようと対岸に渡って会いに行った。佐々木盛綱は宇多天皇九代の孫といわれ同族であるので、諸々先祖話で盛り上がった。そのなかで浅瀬を教えたのだが、佐々木盛綱がこの浦の男を殺してしまう。」

 う~ん。この説ですと、漁師は一介の漁師にあらず、このあたりの領主だったわけで、親族の佐々木盛綱に会って情報を伝えたということになり、私の疑問に見事な答えとなっています。
 もしかしたら、この「伊吹兄弟説」が事実で、現在伝わっている伝説は、室町時代以来の「謡曲藤戸」が元になったものなのではないでしょうか?
 800年余り前の物語です。何が正しい?ということの追求は置いておきまして、私としてはぜひこの「漁師(浦の男)=伊吹兄弟説」を流布させていただきたいものです。
 源平合戦って深いですね!。郷土史ってこれまた深いですねー。(2003,6)

PS:これまで出てきた漁師の名前は『惣十郎』『與介(与介)』『喜十郎』の3つです。このうち、惣十郎は書物を書き写すおり間違えた(転記ミス)可能性があり、私は『喜十郎』『與介(与介)』の2つをとりたいと思います。「伊吹喜十郎與介」という名だったのではないでしょうか?

盛綱上陸の地、先陣庵 浮洲岩跡(殺された漁師が流れ着いた)
鞭木(渡会中の佐々木盛綱が途中で浅瀬に鞭をつきさしたところ)

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