そうだ!!「ナウマン象」もいたんだ

昔は海だった「帯江」

 「帯江の歴史を調べたい。」というと、たいていの人は「昔はほとんど海だったからなー。」と言います。だから古い歴史は無い?と言いたいらしいのですが。

 たしかにこの帯江地区の大部分は、あの豊臣秀吉がいたころ、そうです、400年ほど前までは海でした。江戸時代になって、順々に沖へ沖へと堤防を築いて締め切り、陸地にしていったのです。
 「吉備の穴海」といいまして、吉備地方と沖の児島にはさまれた遠浅の海だったそうです。(こまかいことを言いますと、いわゆる”吉備の穴海”がどこかというのは諸説あるようですが、ここではもろ帯江ひいきをして、この地にしておきます)。
 右の地図は、倉敷埋蔵文化財センター発行の冊子「たんけん!くらしきの古代」にある、貝塚の分布地図です。約8、000年前ころからの海岸線がわかりやすく書かれていました。赤い点が発見されている「貝塚」です。

 遠浅といえば、九州の有明海とか諌早湾のことが浮かんできます。そしてそこにはあの「むつごろう」がいるではありませんか。もしかしたら、昔の帯江にも「むつごろう」がいたのかもしれません。いや、もっと近くの笠岡湾には今も「かぶとがに」がいます。きっと昔の吉備の海には「かぶとがに」がいたにちがいないと思います。

 というようなことを考えていますと、急にそのことを調べたくなってきました。え!、そんなの歴史じゃあないですって。たしかに人間の文明ではありませんが、でも彼等もDNAを持つ同じ生物なんですよ。しかも、昔この帯江で生きていたかもしれない、私たちの先輩たちなんですよ。(と、こじつけはこのくらいにしまして・・・・・・)

そして、もっと前は・・・・・・

 まず最初に「倉敷市埋蔵文化財センター」におじゃましました。倉敷市福田のライフパークに併設されているこの施設は、前にも何回かおじゃまして土器の修復作業などをされている様子を見せていただいたことがあります。今回も親切にいろんな資料を見せていただきました。が、やはり「大部分が海だったから」遺跡地図のマークも少なかったようです。これらについては、別のページでまた書きます。
 最後に展示コーナーのほうへ足を運んだ私の目に飛び込んできたのは、おおきな「骨」でした。「ナウマン象の化石」と書いてあります。
  「そうだ。2万年以上前の瀬戸内海は陸地だったんだ。大草原にナウマン象がいて、人々が山の上から見下ろして、狩りをやっていたんだ。」私の頭の中に、パーーとそんな風景が浮かびました。
 そうなんです。帯江の昔には「ナウマン象」という大きな象がいたようなんです。帯江の住人としては、私たちよりも、そしてかぶとがによりも、もっと先輩なのかもしれません。
 ナウマン象の骨の化石は、最近まで漁師さんの網にかかって、鷲羽山おきなどの瀬戸内海から上がってきていたそうです。
 倉敷市自然史博物館の入り口には、大きなナウマン象の模型が展示してありますが、さすがに迫力がありますね。
 海だった時代の前の帯江は、全部陸地だった時代があって、そこにはナウマン象や人間(原人)たちがいたようなのです。今のこの帯江の土地の下には、もしかしたら当時の遺跡もねむっているかもしれません。いわゆる「旧石器時代の遺跡」として・・・・・・。
 私の想像はどんどん発展していきます。調査がいよいよ楽しくなってきました。

 下は、倉敷埋蔵文化財センター発行の冊子「たんけん!くらしきの古代」からいただきました。
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