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吉備路散策2018
備中国分寺・こうもり塚・きびじつるの里・作山古墳

 秋の良き日、きれいに晴れ上がった一日、倉敷市の老人福祉施設「有城荘」と「西岡荘」合同での「吉備路を歩く会」が開催されました。私は説明役で参加です。

 えっ、吉備路?観光地には近くの人はあまり行かないもの?だそうです。「いつでも行ける」ので、ついつい足が遠のく?らしいですね。
 ご多分に漏れず私もそうで、「吉備路」の中心部に行くのは、そう、もう10年ぶりくらいでしょうか?
 えっ、説明?あれこれと忘れていたり、もう知識が時代遅れになっている可能性もいっぱい・・・・。という訳で、私もすこしばかり予習をしないと出かけられない始末ではありました。さてさて、どのような始末にあいなりますやら???

備中国分寺のこと

 参加者は30人ほど。なるほど、ポピュラーなところの割に大勢の参加だったようですね。  最初はやはり多くの「吉備路」の写真に載る代表格、「備中国分寺」からでした。観光駐車場のすぐ正面にあります。
 「奈良時代の741年、聖武天皇の発起で全国に建てられた「国分寺」のひとつです。真言宗御室派、本尊は薬師如来。どうやら南北朝時代に火災にあって廃寺となっていたのが、江戸時代の宝永年間(1704~1711)に再建されたのが現在の建物らしいです。
 そして岡山県下唯一の五重の塔は焼失した7重の塔を1800年代前半に5重の塔として再建したもの・・・。」
 さっそく説明を始める私でした。

巨大石室・こうもり塚


 国分寺から東へ歩いてしばし、正面にこんもりとした高まりが見えてきました。
 「飛鳥の石舞台古墳と同規模の巨大な横穴式石室(全長19m、全国4位)をもち、岡山県3大石室(箭田大塚、牟佐大塚とともに)で有名。6世紀後半築造。これは有名な造山、作山から120~130年後になります。古墳は前期と後期にわかれ、横穴石室を持つのは後期です・・・」と私。
 右側に回ると巨大な石室が穴をあけています。石舞台は覆土が無くなっていますが、ここは全長100mの古墳全体が残されているのです。大きい、すごい、さすがに吉備ですね。

国分尼寺跡は広大でした

 次はもう少し東へ歩いて、「国分尼寺跡」へ。ここはお寺が再建されていなくて、林の中に土塀や礎石などが残されているのみです。ただし「東西108m、南北201m」の広大な場所でした。また礎石が1つのみの国分寺と違って、あちこちにたくさんの礎石が残されています。
 「この石の真ん中が丸く切り出され、中央が膨らんでいるでしょ。ここへ柱が立って、ずれないようになっているようです。」と私。

掃きだめに鶴?

 次は一転西へ西へ、吉備路にある国民宿舎「サンロード吉備路」で休憩とお昼ご飯でした。そして、その裏手にあったのが10年余り前にできた「きびじつるの里」です。いただいた資料には左のように描かれていましたが、どうしてどうして『絶景に鶴』が吉備路にふさわしいですね。みなさん。
 開設当時は後楽園からの4羽の鶴だったそうですが、今は12羽にも増えているとか。係の人から、飼育のお話、ペアリングの際の秘話?などを楽しくお聞きしました。
 歩く途中でこうして美しい鶴の姿をゆっくりと眺めるのもまたいいものですね。

最後は全国10位の作山古墳です

 そして最後は全長282mで全国第10位という作山(つくりやま)古墳です。つるの里から南へすぐでしたが、周囲をぐるりと回ったり、元気な人だけ上にも上がったりしましたので、疲れた体には少々きつかったですね。
 5世紀中ごろ築造されたそうですが、西暦450年頃と言いますと、古墳時代のちょうど半ばにさしかかったころ。しかし石室の無い前期古墳です。で、私の解説に、当時の吉備の様子も入ってきます。

 「古事記や日本書紀にはいろんな逸話が入っています。当時の吉備の有力者に御友分さんとか田狭さんとかがいまして、田狭さんは奥さんが超美人だったため天皇に朝鮮に追いやられて、留守中に奥さん(稚媛 わかひめ)を奪われたとかという話です。
 そのほかさきに行った『こうもり塚』は仁徳天皇が吉備まで追いかけてきた黒姫さんのお墓だとか。平安時代の小野小町と言い、吉備は美女の里だったようですね・・・。」

 私にとっても本当に久しぶりの吉備路、お天気も良く楽しい一日になりました。ありがとうございました。(2018,10)

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